るの姿勢で、双方相持になっているのが人[#「人」に白丸傍点]だということだ。我々は社交的の動物であって、決して社会以外に棲息の出来ないものである。だから吾人人類が円満に社会に立って行けるようにするのが教育の目的でなければならぬ。されど軽卒にあちらへ行ってはお追従《ついしょう》をいい、こちらへ来ては体裁能くやっている小才子を以て、教育の目的を遂げた者とはいわぬ。先ず己れの修むべきところのものは充分にこれを修め、そうして誰とでも相応に談話が出来て、円満に人々と交際をして行けることが教育、即ち学問の最大目的だと思う。
我々は決して孤立の人間になってはならぬ。あくまでもこの社会の活《い》ける一部分とならねばならぬ。然るに今まではややもすれば学問に偏してしまい、学者というと、何だか世の中を去り、山の中にでも隠れて、仙人のようになってしまうのであるが、これは大なる間違である。けだし相持ちにして持ちつ持たれつするが人間最上の天職である。かの戦国の時、楚の名士屈原が讒《ざん》せられて放たるるや、「挙世皆濁れり、我独り清めり」と歎息し、江の浜にいたりて懐沙の賦を作り、石を抱いて汨羅《べきら》に投ぜんと
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