けないぜ」
 部屋を出て行かうとする私へ、背後《うしろ》から兄は、故意《わざ》と乱暴に外套《ぐわいたう》をかけてくれた。センチメンタルな愛情の表現を恥ぢると云ふ風に……。さうして私は兄と連れ立つて長い階段を下りて、菊富士ホテルを出た。
 宿の前には、一昨日の晩から昨日へかけて降つた雪が、根雪になつたまま陽《ひ》を受けて弱々しく光つてゐた。私は飲み過ぎと寝不足とで頭がクラクラしてゐた。顔中の皮膚が硬張《こはば》つて、頬《ほ》つぺたが妙に突つ張りでもするやうな不愉快な気持でゐた。ぼんやり立つて、玄関で編上げの靴の紐《ひも》を結んでゐる兄を待つてゐたが、待つてゐると、何かしなければならないことが沢山あると云ふやうな、苛々《いらいら》した気持になつてきた。居ても立つてもゐられなくなつたのだ。――今日お昼時分に印刷屋から、「新思潮」の二月号が刷りあがつて来るはずである。佐治に、発送の手伝ひをすると約束をして置いたのだがと、それが一番重大な気がかりでもあつたやうに、思ひ出すと放棄《うつちや》つては置けないやうな気になつた。私は一寸の間迷つてゐたけれども、玄関に引返して、「用があつて佐治のところへよ
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