抱に皆力を尽していた。そのうち皮癬が一家に伝播して、私と曾祖母との外は皆これに罹った。医者は彦之助の胎毒が変じて伝染したのだといっていた、薬風呂をたてて皆が入った。そのうち私もいくらか伝染した。この騒ぎでいよいよ遊山などには出られなかった。
 京都の藩邸へは出入りの人々がある。そのおもな者には、徳大寺殿の家来の滋賀右馬大允というのがある。松山藩はこの徳大寺家を経て朝廷への用を多く弁じていたものであるから、藩からこの滋賀へは贈物などもして機嫌を取っていた。そこでかれからも親しく交際を求め、私の内へよく来た。茶道の千家は利休以来裏表があるが、この裏千家も私方へ出入をした。この千家の玄々斎宗室と呼ぶのが藩士の名義になって二百石を受け、側医者の格で居た。その外銀主と称える平田、呉服商の吉沢、三宅、などいうのが出入した。銀主というのは、大阪以外この京都でも藩主が借金をした、その債主で、今では金も無くなりただ昔の名義で扶持を貰っている者である。呉服商は、朝廷へ参内する時の官服などを命ずる者である。こういう出入の者等には、留守居としては毎月一回はちょっとした饗応をせねばならなかった。そのうち滋賀や千家などは稀に祇園町へも連れて行かねばならなかったらしい。
 父は京都に着くと、まず他藩の留守居に対して、ヒロメの宴を祇園町に張った。その翌日、祇園町から菓子を贈って来たが、その見事なことは、実に家族等の目を驚かした。
 父は役柄とはいえ、絶えず面白く遊びうまい物を食うので、家族にも何か面白い遊びをさせようと思い、出入の者も勧めるので、遂に大英断で、四条の大芝居を見せるということになった。継母は彦之助の胎毒がまだ治らぬので留守をし、私と祖母二人と出入商人で出かけた。
 四条では南座が始まっていた。これが江戸の猿若以来二度目に見る大芝居である。その頃の京都の芝居は、幕数が非常に多かった。七ツ時(午前四時)に提灯つけて出かけて行き、桟敷へ行くと、二間買切で取ってあった。そのうち鍋に餅を入れた雑炊を持って来る。それが朝飯である。
 やがて幕が開くと、忠臣蔵で、序から九段目までした。二番目が八犬伝の赤岩《あかいわ》一角《いっかく》の猫退治で二幕、それから桂川《かつらがわ》連理柵《れんりのしがらみ》の帯屋から桂川の心中までを演《や》った。打出してから帰ると、もう夜半であった。座頭は三升《みます》大五郎(四代)という京都|根生《ねお》いの役者で、これが由良之助をした。あまり上手ではないとの評判であった。人気のあったのは嵐|璃※[#「王+王」、第4水準2−80−64]《りかく》(初代)で、これは若狭助、勘平、桂川ではお半を勤めた。嵐|璃寛《りかん》(二代)は判官、平右衛門、桂川の長右衛門を勤めた。片岡市蔵(二代)は師直、本蔵を勤めた。この市蔵はその頃目が殆ど見えなくなっていたそうだが、そういう様子は少しも見せなかった。女形では尾上菊次郎(初代)が顔世とお軽と長右衛門の女房お絹を勤めた。八犬伝の役割は覚えていない。
 忠臣蔵は私もほぼ筋を知っており、八犬伝はその頃読本を見ていたから面白く見た。璃※[#「王+王」、第4水準2−80−64]の若狭之助が師直に対し切歯する所は余り仰山らしいと思った。この頃璃※[#「王+王」、第4水準2−80−64]は大分年を取っていて、お半になって花道に出た時、頬や衿筋に皺が見えた。璃寛の判官は太り過ぎていたので、見慣れた錦画の判官とは違っていて、品格が無いと思った、しかし平右衛門になってはその太ってるのも似合わしかった。長右衛門になるとまた色男としては太り過ぎていて変であった。かつて猿若で平山武者所をやった浅尾奥山が帯屋の長吉をした。大きな体で前髪姿のおかし味は興があった。赤岩一角については、猫の正体を現わした際に指さきがギラギラ光っていたことと、それから源八を欺いて殺そうとする時、寝床の前に、躓かせるためにいろいろの物を並べる赤岩の門弟達の挙動とが目に残っているばかりである。
 私は読本や草双紙を知っているので、それと芝居と違うのが気になった。昼飯は茶屋へ行って、そこで普通の膳が出て食べた、厚焼の玉子のうまかった事を今も忘れぬ。夕飯はちょっとしたものであった。食事は江戸に比してすべて粗末であったが、菓子は立派に高杯《たかつき》に沢山盛られてあった。出入の商人などは時々私の家族などに面白可笑しく話をしかけ、役者の批評などもした。祖母二人はさほど芝居の趣味をわからぬので、ただ役者の顔を珍らしがって眺めていた位のことであった。
 父が京都の留守居を勤めたのは八ヶ月で、翌年の夏藩地へ帰ったので、家族が京都で芝居を見たというのは唯この一度であった。しかし私は今は新京極というその頃の誓願寺や、錦小路天神、蛸《たこ》薬師、道場、祇園の御旅には、いろいろの興行物があり、小芝居もしていたので、それを時々覗いた。これは若党などに伴われて行ったのである。若党は藩地より連れて来た外、今一人京都で抱えた。それは前の留守居に勤めていた者である。この三人の若党と、一人の仲間と、いずれも浄瑠璃(即ち義太夫)や芝居が好きであったので、よく伴われて行った。落語の寄席にも、度々行った。私が落語を聞馴れたのは、この京都の机を前に置いて木を以て叩く落語によってであった。就中、女義太夫を若党どもが聞くので、私も連れられて行って、始めてここに義太夫を知った。
 なぜ若党どもが容易《たやす》くこういう所へ行けるかというに、その頃京都では、二本さした者は無銭で這入ることが出来たのである。京都には二本ざしが少なかったので、興行者の方でもこの特許をさせた。しかし二本ざしも蒲団や茶の代だけは払った。若党はいつも、『若旦那のお供』といって、私をダシに使って行った。そのうち父がこの事について私に異見をして、藩地に居れば文武の稽古をすべき身で、そんな所へばかり行っていてはいけない、と戒めた。
 こう戒めた父が、役目とはいえ祇園町へ頻りに行くのであるから、とかく家庭が総て上調子であった。家来のうち一人は藩地に居る間に聊か義太夫の稽古をしていた。京都抱えの若党も少しはやるので、父の留守には、低声に義太夫をやる。私も好んでそこへ行って、聞慣れ、義太夫本も読んで、面白くなって、それを写したのもある。忠臣蔵四段目、二度目の清書、妹背山三段目、杉酒屋、安達原三段目などは、私は写しもし、またいくらか暗記もした。就中、忠臣蔵の八段目の道行の如きは、口調もよく、短いので、今でもやれる、その他も、一段全部は覚束ないが、一部分々々は随分今でも記憶している。十二歳から十三歳へかけての記憶が七十四歳の今日も存しているのである。
 京都に住んだその年の末に、徳川家茂公に将軍宣下があったため、酒井|雅楽頭《うたのかみ》が代理として御礼に上京することになったが、酒井の屋敷は手狭なので、堂上方はじめの訪問を受けるには不便とあって、我藩の屋敷を借りたいと申込まれ、承知して私共は上《かみ》ノ町の或る町家を借りて一時住むことになった。この際屋敷の御殿も一時の建増をした。
 町家住居をすると、夜々蕎麦屋が、『うどんエそばエハウ』といって売りに来た。温かく煮た蕎麦へ山葵がかけてあるのを、寒い頃なので家来がまず食べ始めてうまいうまいといい、やがて家族も食べて、毎晩上下こもごもこれを呼んで食べた。この位の事は、祇園通いをする父がもう戒め得なかった。
 そのうち新年になった。春駒というものが来る。これは馬の頭に鈴をつけ、それに手綱をつけて打振り打振り三味線で囃し、それが済むと、ちょっとした芝居一くさりをする、私の所ではこの春駒によく銭をやるので、度々来て芸をした。この春駒の中で、金三郎といって、美男であり芸も多少勝れている者があった。下女などは『金さん金さん』といって、後を追うてよそで芸をするのまで見た。
 後にこの金三郎が、尾上多見蔵に認められて、本当の役者になり、やがて名代になって市川市十郎と名乗った。その後東京の春木座が出来した時に、市川右団次の一座に這入って来た。私もなつかしくて見に行ったが、生憎《あいにく》その日市十郎は病気で欠勤した。それから更に烏兎《うと》匆々と過ぎて大正三年になって、市川眼玉という老優が東京へ来た。それが昔の市十郎だと聞いたので、行って見た。彼は石川五右衛門をやった。私はこうして、昔の『金さん』と相対した。五右衛門の友市と久吉の猿松の出あいどころではない、即ち五十年目の奇遇であったが、もとより先方は何も知らず、ただ私一人で胸に京都の昔を思い浮べただけである。
 新年にはまたチョロという者が来た。張子の大きな顔の、腰の下まであるのをスポリとかぶり、左右の穴から手を出してササラを持っている。町の子供はこれを見ると『チョロよチョロよ』と囃し立てる。するとチョロはその子供らを殊更に追いまわした。
 酒井雅楽頭は、新年になって上京した、私はその行列を三条通りで見た、赤坂奴が大鳥毛の槍を振り立て拍子を取って手渡ししつつ練って行った。江戸に居た時大名の行列は度々見たけれども、こんな晴れの行列は始めてであった。
 姫路の藩邸の留守居の下役と、私の藩の留守居の下役とは、親類であったので、かの貸した屋敷へも行って見せてもらったが、大提灯や幕や金屏風で飾立てて、そこへ堂上方はじめ頻繁に訪問したそうで、これが自分どもの住んでいた所かと怪しまれた。雅楽頭の引払われてから、その居間を見せてもらったが、そこに紫色をした蕗の薹が一輪ざしに活けてあったことを覚えている。
 間もなく建増も取払われ、私の藩へ引渡されて、また私どもの住居になった。ところがその荷物を運んでる最中に、家来が『先ほど松山から御用状が参りました』といって差出す。父が開いて見ると、『御留守居御免で、松山へ帰足、御目付帰役仰付けらる』、との辞令である。家内一同驚きかつ喜んだ。
 目付というのは藩の枢要の地位で、上に家老を戴いて、すべての政治に関する役である。これは既に江戸で勤めていた故、『帰役』といって、元の座席へ帰って勤めることである。
 こうなったが、代りの留守居が来るまで、暫く在職していねばならぬ。その間に伊勢参宮をした。京都の留守居は、年に一回藩主の代理として参宮をすることになっていたのである。その土産に鹿の玩具や鹿の巻筆などを貰った。
 その頃花時で、私の庭前の大きな桜も見事に咲いたので、或る日内で花見をすることになり、滋賀や千家や出入の商人が来て盛んな宴を張った。皆松山帰りの喜びも述べた。この日は芸子なども来、夜更くるまで篝などをたいて大変に陽気であった。
 これもその頃であったが、円山の何阿弥という茶屋で踊の浚《さら》えがあるから来いとの案内が来た。その日は父もそこに行っているであろうから、私にも行くなら行って来いと、祖母がいったので、下役の三好という家の子供と若党も連れて一緒に行った。茶屋へ行くと、もう浚えは済んでおり、父も居ないので、失望しての帰り途、父は自分の馴染の祇園の茶屋鶴屋というのに居るであろうと思って、そこへ寄った。この鶴屋は松山藩の馴染の茶屋になっていて、藩の者はよくここに会し、ただ大宴会となると一力でやることになっていた。父はこの鶴屋にも居なかった。私はいよいよ失望して、悄然と帰った。私がどうしてこの時鶴屋へ父を尋ねて行ったというに、かつてここへ伴われて大変に面白い目を見たことがあるので、またあのような事があると今日の失望が償われると思ったからであった。
 その面白い目を見たというのは、出入商人が父を促がして清水の花見に行った時のことで、私も附いて行った。ある茶店で弁当を開いたが、商人らはそれだけで満足せず、父をせり立てるので、父はやむをえず右の鶴屋へ一行を案内した。座敷へ這入ると、赤前垂の仲居が父に『小縫さんを呼びましょうか』と囁いた。『それに及ばぬ』と父は答えて、外の芸子を呼び舞子も呼んだ。私はこの時『小縫』という名を始めて聞いたが、これは父の馴染の芸子であった。留守居役は各藩共馴染の芸子を有《も》たねばならぬのであるが、今
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