読書力のあるのを認め、学問所の等級も知って居られるので、間もなく私を頭取という仲間に入れられた。頭取になると、草紙をいくら習っても随意なのである。頭取にならぬうちは、草紙の数が極まっていて一々検査を受けるのである。こういう楽な仲間に這入ったので、私はいよいよ手習をしなくなった。けれど、清書は勿論先生に見せるのである。私の清書にはよい点はつけてもらえなかったが、そこは読書力の方で差引して、大目に見てくれたようであった。或る時先生が鎌倉の頼朝以下十将軍の名を唐紙へ書いて、これを暗記して書いて見せたものへ遣ろうといった。そこで私はそれ位は最前知っているから直ちに書いて見せると、先生がアアお前が居てはいかんといって顔をしかめたが、約束だからそれは貰った。
 とかくして帰国した一年は終り、翌年になったので、お国で、一種変った新年を迎えた。まず正月の二日には君侯の館へ出て、年賀を述べる、これは江戸と同じである。それから親類を回る。それらの儀式は江戸と多く変らぬが、万歳に至っては、藩地では全く穢多のすることになっていた。三河万歳のような簡単なものではなく、三味線太鼓笛などで打囃《うちはや》し、初めは滑稽なるものをやるが、そのあとは芝居がかったものをやる。顔は胡粉を塗り、木綿の衣裳を着けていた。この万歳は、江戸屋敷の如く家々でするのでなく、或家でのみさせた。米を一斗とかあるいはそれ以上も与え、与えただけに芸も数多くすることになっていた。穢多であるから、庭で舞わせ庭で粗末な酒肴を与えた。私は一、二回よその内へ行ってこの万歳を見せてもらったが、江戸の芝居を見慣れた目には、いかにも馬鹿げているので、もう見ないことにした。
 三月になって雛祭をした。祖母の雛は十二年前江戸へ行く時に他に預けて置いたので、それをこの節句には飾ったから古い大きな内裏様が一対増したのを嬉しく珍しく思った。私は江戸以来男ながら小さな雛を持っていたのを飾ったが、弟の大之丞が自分にも欲しいなどというのを、私は手を触らせないようにするので、よく喧嘩をした。
 藩地の城下の地面は砂地で、植物に不適当であって、殊に桜の如きは育ちにくいので、城下では一本の桜も珍重する。花見といえば、城下を十町ほど離れた所に江戸山というのがあって、そこに五、六本の桜があるのを大騒ぎで見に行くのである。私もそこへ花見に行った。そこには山内神社といって、享保年間に私の藩で御家騒動のあった時、忠義のために割腹した者を、三代前の文武を奨励した君侯の時、特に神として祭られた、その社がある。花見はこの社の参詣をかねていたものである。
 社のついでにいうが、私の家の持主の味酒神社は大山祇の神を祭ったもので、久しい以前から唯一神道でいて、社は皆|檜皮葺《ひわだぶき》、神官も大宮司と称して位も持っており、その下にも神官が数々居て、いずれも一家を構えて住んでいた。私はよくこの大宮司の内へも遊びに行った。そこの子供に私と同年輩位のがあって、武知先生へも一緒に行く仲間であった。読書は私より遥に劣っていた。神官の家であるから、彼らは特に弓の稽古をしていて、社の構内に朶《あーち》が設けてあった。私もここで射てみたが、弓もやはり拙かった。しかし撃剣よりは興味があるので、父にせがんで弓矢を買ってくれといったが、父は、弓など射るより確《しっか》り撃剣をせよと叱った。私は読書の方では叱られなかったが、武芸の方では、よく不勉強だといって叱られた。
 ある日大宮司の内で遊んでいた時、私のそばにそこの長男が居た。私がちょっと右へ顔をふり向けると、耳の穴が非常に痛かった。長男が私の耳へ小さな藁しべをあてがっていたのである。それから暫く耳が痛んで仕方がなかったが、七十四歳の今日でも、耳の掃除をする折、ある部分に触れると多少の痛みを感ずるのである。
 その頃彼らは私に向って、『今こそお前はおとなしくしているが、今に屋敷を持って、他の士族仲間の子弟と遊び出したら、私達は顧みもしなくなるだろう』といっていた。大宮司は従五位上肥後守といっていたが、藩の士に対しては卑下していた。私はたまたま家主の子であり藩地へ来て始《はじめ》ての友達であったので唯一の友としていた。しかしなるほど他の藩士の子弟と交るようになってからは、疎遠になってしまった。
 この大宮司へは国学者などがよく来たもので、ある時長く逗留して何か調べ物をしている人があった。大宮司の子等があれは国学の先生で三輪田綱一郎《みわだつないちろう》という人だと私に話したが、それが後年京都で足利の木像の首を切って晒し物にした浪士の筆頭となったのである。そしてその妻は今の三輪田女学校長の真佐子である。この綱一郎は松山城下を少し離れた久米《くめ》村の日尾《ひお》八幡《はちまん》の神官の子であった。
 五月になると、江戸で初幟をした折の、長い幟と四角なのとを立てた。七歳以上になると立てぬもの故、次々と弟に譲ったので、弟の初幟といっては、別に買わなかった。この正月継母が更に男子を生んだ。それは彦之助と名づけた。
 段々と暑くなった。私も学問所や武場の友達が殖えたので、それらの人とよく遊んだ。その頃子供の遊びとしては城下の外の小さな川へ鮒や鯉を釣りに行くことで、少し荒っぽい方では泥鰌《どじょう》をすくう。私はあまり殺生を好まなかったが、年上の者等に連れられて行くこともあった。
 あるいは蕨《わらび》取り、あるいは茸狩《きのこがり》に、城下近い山へ行くこともあった。山の上で弁当を食うことは宜かったが、茨にかき裂かれなどして茸など取ることは、私には唯面倒な事としか思えなかった。そんなことをするより、内でまだ読まない本をそれからそれへと読んで行く方が面白かった。
 そうしているうちに、或る日私が外から帰って来ると、継母や祖母が憂に沈んでいる。不思議なことと思ったが、父が京都の御留守居をいい付かった故と知れた。
 去年不首尾で帰ってから一年たったので、元来父は藩では才力のあった方ゆえ、長く休ませて置くでもないということになり、それにしても、父は頑固な方ゆえ、京都あたりの留守居でもさせたら、少しは角が取れるだろうとの考えから、こういう役をいい付かった様子である。
 京都の留守居といえば、禄高も増し、よい地位であり、首尾直りの上からは目出度《めでた》いのであるが、家族等はとかく国を離れることを厭がり、江戸に居てさえ帰りたい帰りたいといっていたほどであるから、今度の京上りも、家族等のためには憂であったのである。私も何だかやや馴染んだこの藩地を離れるのが厭なようであり、親友と別れることも残惜しかった。
 親類等が遣って来ては、我々家族を慰め、長いことではあるまい、そのうちまた藩地へ帰ることになろう、と慰めた。父は別に嬉しいとも悲しいともいわぬ性分であったから、唯黙って京都行きの準備をした。唯、私の文武の修行を怠らせるのを残念がって、長くなるようなら父の実家へ私を預けて修行させることにしよう、といっていた。
 八月いよいよ三津から藩の船に乗って、京都をさして上ることになった。三津までは親類も送って来た。別を惜んで落涙する者もあった。この海路は非常に風が悪かった。追手続きなれば三昼夜で大阪に這入れるが、まず普通は七日かかる。それが、この時の航海は風の都合が悪くて、あちこちの港に泊り、その度入浴したり、米の買足しをしたりして、十九日目にやっと大阪に入ることを得た。父は位地がよくなったので、若党を二人、仲間を一人、下女を二人召連れていた。
 大阪に着して、例の中ノ島の屋敷に一両日滞留した。別に見物はしなかった。この屋敷の留守居の下役に安西《あざい》という者があった。その家の子が私と同年輩であるから、遊んでいた。松の枝の切ってあったのを投合っていたところが、私の投げたのが彼の額にあたって、傷がついて血が出た。私も心配して帰って告げると、父は相済まぬことをしたといって私を叱り、直ちに安西へ自ら行って詫びをした。父は安西より地位が高いのであるから、先方でも恐縮して挨拶に来た。
 大阪着の晩、私は錦画を一、二枚買って来たら、父が『こんな贅沢な物を買ってはならぬ』といって叱った。留守居という役は、他の藩々の留守居と交際をせねばならぬ、そしてその交際の場所は京都では祇園町であるので、家禄の増高の外に交際費も貰うのであるが、それでもこの役は結局いくらか借財が出来ると覚悟せねばならなかった。父がこの錦画のために叱ったのも、よほど用心して節倹せねばならぬと思っていたからであったろう。京都に入って後も、贅沢な玩具などを買うことは出来なかった。
 私は父に叱られる事が何より怖かった。一度叱られるといつまでもそれを守らねばならぬと思っていた。尤も度々は叱られなかった、叱られた事は今も歴々と記憶している。
 一つ、父の命を守り過ぎてかえって後悔している事がある。それは藩地に居た時のことで、友達に誘われ、城下の外の池へ行って、水をあびていた。そのうち友達が泳ぎ出したので、私も泳ぎたくなって、両手を突いて、足をバチャバチャさせていた。さて帰って来ると、頭の濡れているのを見つけられて、これはどうしたのかと問われた。私は偽りをいうことは出来ぬ性分なので、ありのままにいうと、祖母は、池には人取り池というのがあるといって戒め、父もこの事を聞くや、危険な時に子供同士では助け合うことは出来ぬからといって叱った。その後また友達に誘われてかの池へ行ったが、叱られるが怖さに水に這入るのを躊躇していると、卑怯だ卑怯だと罵られたのでまた這入った。これもわかって今度は父に火のつくように叱られた。それから全く池や川に這入ることはせず、そのため一生泳ぎを知らず、ちょっと艀に乗っても不安な思いをするのである。父の命とはいえこれだけは少し守り過ぎたと思っている。藩には伊東という游泳を教える家があったが、なぜかこれには徒士以下の者が多く入門していた。この伊東の游泳術は神伝流と称して二、三代前の祐根という人が開いたのだが、その後他の藩へも広まって、今も東京の或る水泳場ではこの神伝流を教えている。
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   五

 さて京都の屋敷は、高倉通り六角下ル和久屋町《わくやちょう》という所で、今まで居た岡本という京都留守居と交代して、ここに落着いた。
 留守居は各藩共に、主として禁裡御所へ対する藩の勤を落度の無いように互に相談し合っていたものである。大名は、参勤交代等の際にも、禁裡御所へ立寄ることは出来ず、稀に、将軍の代理として上京することがあるだけである。京都に対して何かすると、幕府から嫌疑を受けるという恐れもあった。ただ藩主が侍従とか少将とかになった時には、朝廷から口宣を賜わるので大《おお》ッ平《ぴ》らに献上物等もした。その他臨時に献上物をすることもあった。こういう事は、古例を守り礼儀作法を知らねば出来ず、間違があると公家方から談判をされる。そうなると、藩主が幕府に対して不首尾になる。こういう次第で、ウカと近づいてはいかず、近づくにはむつかしい作法がいるというので、藩々からはとかく京都に対しては敬遠主義を取っていた。京都の留守居は、特にこの朝廷に対する藩の関係を注意して勤めなければならなかった。その言合せのために、祇園町に会飲する習わしになっていた。こんなイキな事は父は至って不得手であるが、この役にされた訳は呑込んでいたので、交際はつとめて遣るという決心をしていた。
 京都の邸は小さくて、御殿といって君侯の居られる所も出来ていたが、ここへ来られるのはまず君侯一代に一度もあるかないかという位であるので、この御殿へ留守居が住まっていた。立派な所が我が家になったのである。それから、父がちょっと出るにも、若党二人と草履取を連れる。屋敷を出る時には、皆下座をして『お出まし』という、子供心にこれらの事は嬉しかった。
 節倹をせねばならぬというので、家族は物見遊山に出なかった。それに大之丞の次の弟、彦之助が京に上ってから胎毒を発し、頭が瘡蓋《かさぶた》だらけでお釈迦様のようになり、膿が流れ、その介
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