鳴雪自叙伝
内藤鳴雪

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)八十《やそ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)最初|沼波瓊音《ぬなみけいおん》氏の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+戔」、76−7]収

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)石ころ/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    緒言

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 この自叙伝は、最初|沼波瓊音《ぬなみけいおん》氏の「俳味」に連載されしが、同誌の廃止後、織田枯山楼氏の「俳諧文学」にその「俳味」に載りしものと共に終結までを連載された所のもので、今般それを一冊子として岡村書店より発行せらるることとなったのである。
二 誌の毎号の発行に当り、余は記憶に捜って話しつつ筆記してもらい、それをいささか修正したるものに過ぎぬから、遺漏も多く記憶違いも少なかるまい。しかし大概は余が七十六歳までの経歴の要項を叙し得たと信ずる。
三 文中に現今七十四歳[#「現今七十四歳」に白丸傍点]とあるは、談話もしくは修正の当時における年齢である。
四 意義に害なき誤字は発行を急ぎし故そのままにしたるものも少なくない。
五 附録の句集は松浦為王氏の選択に任かせたものである。
[#ここで字下げ終わり]

  大正十一年三月
[#地から3字上げ]鳴雪識るす
[#改丁]

[#ページの左右中央]
      目次

     緒言
    自叙伝
     附録 鳴雪俳句抄録
[#改丁]
[#ページの左右中央]
   自叙伝[#地から13字上げ]内藤鳴雪
[#改ページ]

   一

 私の生れたのは弘化四年四月十五日であった。代々伊予松山藩の士で、父を内藤房之進|同人《ともざね》といった。同人とは妙な名であるが、これは易の卦から取ったのである。母は八十《やそ》といった。私は長男で助之進といった。その頃父は家族を携えて江戸の藩邸に住んでいたので、私はこの江戸で産声をあげたのであった。幕府の頃は二百六十大名は皆参勤交代といって、一年は江戸に住み次の一年は藩地に住んだ。そして大名の家族は江戸に住んでいた。それに準じて家来も沢山江戸藩邸に居た。その中で単身国許から一年交代で勤めに出るのもあり、また家族を引連れて、一年交代でなく或る時期まで江戸藩邸に住むのもあった。前者を勤番《きんばん》といい、後者を常府《じょうふ》といった。私の父は弘化三年の冬にこの常府を命ぜられ、松山から引越して江戸へ出た、その翌年に私が生れたのであるから、私は松山でたねを下ろされ、腹の中にかがまりながら海陸二百五十里を来て江戸でこの世に出たのである。
 大名の屋敷はその頃上屋敷中屋敷下屋敷と三ヶ所に分って構えたもので、私の君侯の上屋敷は芝|愛宕下《あたごした》にあり、中屋敷は三田一丁目にあり、下屋敷は深川や目黒や田町などにあった。この中屋敷で私は生れたのである。ちょうど今の慶応義塾の北隣の高台で、今はいろいろに分割されているが、あの総てが中屋敷であった。慶応義塾の下に春日神社が今でもあるが、あれが、私の産土神《うぶすながみ》で、あの社へお宮参りもしたのであった。
 私の幼時の記憶の最も古いのは、何でも二つか三つ頃に溝《どぶ》へ落っこちた事である。私どもの住んでいた小屋は藩から立てられたもので、勤番小屋、常府小屋に区別され各役相応の等差があった。私の父は側役《そばやく》といって、君侯のそばで用を弁じる者即ち小姓の監督をし、なお多少君侯に心添えもするという役で、外勤めの者の頭分《かしらぶん》というのと同等に待遇されていた。故にその身分だけの小屋を貰っていたが、或る時、私の母の弟で、交野《かたの》金兵衛といって、同じく常府で居たものが、私を連れて外出しようとした。家の門の前に溝《どぶ》があって、石橋がかかっていた。交野の叔父は私の手を引いてそこを渡ろうとした。すると私は独りで渡るといい張った。叔父も若かったから、それならといって離した。私はヨチヨチ渡りかけたと思うと真逆様《まっさかさま》に溝へ落ちた。小便もし、あらゆる汚ない物を流す真黒《まっくろ》な溝であった。私は助け上げ家に入れられて、着物を脱がせられるやら、湯をあびせられるやら大騒ぎであった。どうもその時の汚なさ臭《くさ》さ苦しさは今でも記憶している。
 私の三つの時の七月に母は霍乱《かくらん》で死んだ。それ以来私は祖母の手に育てられた。私のうちには父母の外に祖母と曾祖母がいた。母がなくなってからはこの二人のばばが私を育ててくれたのであるが、就中《なかんずく》祖母は我が子のように可愛がってくれた。私も『おばアさん、おばアさん』といってなついていた。夜は床に入ってから寝着くまで祖母の乳を吸うていた。何も出ないのであるがこれを吸わねば寝着かれなかった。牛乳の無かった時代だから定めて私を育てるのに骨が折れたことであろう。
 私は悪い癖があった。それは寝ていて糞をたれることで、このために時々夜半に祖母達が大騒ぎをした。その糞騒ぎの真最中に泥棒が這入ったことがあった。これは私の四つか五つの時であった。この賊は私の祖父の所の下部《しもべ》であった。私の父は菱田という家から養子に来たものでこの菱田の主人即ち私の祖父にあたる左近衛門というは、その頃奥の頭役《かしらやく》といって、他では奥家老といった役を勤めていた。ここには若党|仲間《ちゅうげん》などいくらもいた。その中の一人があに計らんや賊の親玉であって、常に私の家の様子をよく知っていたので、この夜半の騒ぎに乗じて這入ったのであった。彼は以前にも、私の父の同役の勤番の鈴木という内へ宵のうちに行って、そこの下部といろいろ話して、その夜主人が当直だということを知って、忍込み大小《だいしょう》や衣類を盗み、それを有馬藩邸に対した横町の裏門の石橋の下へ隠して置いた。この裏門のあった所は、綱坂《つなさか》という坂で、昔渡辺綱が居たという処である。間もなく彼は召捕られて屋敷内の牢屋へ繋がれたが、一夜食物の差入口から一つの柱をこわして『牢抜《ろうぬけ》』をした。よほど無理に抜けたと見えて、柱の釘に肉片が附いていた。そんな事にひるまず彼はその足で直ちに私のうちへ忍込んだのであった。盗み出したのは納戸にあった小箪笥《こだんす》で、その中から雑用金と銀金具物《ぎんかなぐもの》などを取り箪笥は屋敷内へ棄てて行った。
 そこで藩にも差置けぬというので幕府の捕手《とりて》の手を借りて召捕ってもらう事にした。もとより公然幕府の手を借りるという事は手数のことだから、ないないで捕手に物をつかって頼んだのであった。かかる者の徘徊するのはまず吉原であるから、捕手は吉原を探っていると、或る青楼の二階へかの男が上がろうとしている所を見つけた。彼は見附かったと知って巧に影を隠した。すると捕手は直ちに品川へ向って、そこの廓《くるわ》で捕えた。北から逃げた者は直ちに南に向うという捕手の見込が中《あた》ったのである。そして暫く屋敷の牢屋へ入れて置いたが、やがて牢中で死んだ。
 一体この頃の刑法は、別に明文は無く、幕府及び諸藩では皆前例によって刑罰を与えていた。盗賊でも取った金額が多いかあるいは強盗であると、死刑に処するという事になっていた。かの賊も十分死刑にあたるものであったが、死刑にするとなると藩邸で殺す事は出来ない。是非とも幕府の仕置場即ち鈴ヶ森か小塚ッ原でせねばならぬ。これは大変に手数がかかる事だから大抵は牢屋で毒を一服飲ませて殺したものである。かの賊の死んだのもやはりこの一服で死んだのであった。その男は梅とかいう者であったと覚えている。
 重犯などでなくちょっとした盗みなどをした仲間下部などは、一日か二日|後手《うしろで》に縛って、邸内の人の立集う所にさらして置き、十分諸人に顔を見知らせた上で、『門前払い』即ち追払ってしまう例である。私も度々この『さらしもの』を見たことであった。
 五歳の冬に私は上下着《かみしもぎ》をした。小さな上下に大小をたばさみ、親類うちなど披露にまわった。上下着をしてからは、小っぽけな体でも屋敷外へ出る時には大小をささねばならなかった。もとよりそれは軽い、玩具のようなものであった。屋敷内では上下を着たり袴をはく時の外は脇差一腰だけをさした。脇差だけは子供同士遊ぶ時でも差さねばならなかった。
 私の六つになった年の正月に継母が来た。これを大変珍しいことに思った。この継母は春日という家から来たので、その頃は藩地松山にいたが、おりふしその姉の嫁している山本という家の主人が目付をしていたのが常府を命ぜられて出府したので、それに伴われて来たのである。春日の家とは遠縁であった。従って山本とも知合いであった。まだうちへ嫁して来ないその前年の冬に、私は祖母に伴われて山本の家に行き、もう間もなく母になるべき人に逢った事を覚えている。子供心にも珍らしい改った気がした。
 この冬、十二月二十四日愛宕の市《いち》へ、私のうちの下部《しもべ》は正月の買物に行った。年の市は所々の宮寺にあったが、愛宕の年の市は芝辺では最も盛んで、藩邸の者もこの市で正月の物を調えたもので、うちの下部もその晩新しい手桶や注連飾《しめかざり》などを買って帰った。父はすぐその手桶に嘉永四年云々と書き認めていた。その時俄に邸内が騒がしくなって、火の見|櫓《やぐら》で鐘と板木《はんぎ》とあえ交《ま》ぜに叩き出した。この火の見櫓はどこの屋敷にもあったもので、火事があると係の者がそれへ上って方角を見定め、高声にその方角を知らせ、そして板木を叩いた。鎮火すると鐘を鳴らした。最も近火で、藩邸も危いという時には鐘と板木とあえ交ぜに打つことになっていた。その非常の音を聞いたので、家の者悉く騒立って見ると、我が邸内の君侯の厩から火が出たのである。今も地形が存しているが、私の家は君侯の住居の近くの高台でその厩は表長屋に近い低い方であったから、私も下女に負われてその火事を見た。この時私は始めて火事というものを見たのであった。
 ついでにいうが、私の藩の上屋敷はその以前、私の二歳の時に焼けた。これは『麹町《こうじまち》火事』と称した大火で、麹町から愛宕下まで焼けたのである。そこで上屋敷にいた者も一時は君侯はじめ中屋敷の方に住まって、私の家へも親類の丹波などというのが来ていた。後にその上屋敷は建築された。これについては材木を藩地から取寄せ、大工も藩地のを呼寄せて、素晴らしく堅固なるものを作った。これは明治以後残っていたが、一時陸軍省の管轄となり、その後は私有地となって取りこわされた。或る人の話ではその表門は米国の或る好事家の別荘の門になっていて日本の昔の大名屋敷の門としてその主人の自慢になっているとのことである。
 さて私のうちも継母が来てからは賑《にぎ》やかになった。この継母が来た時私に土産にくれたのは箱根細工の菓子箪笥で、どの抽斗《ひきだし》をあけても各々菓子が這入っていたので、私は大変喜んだ。継母は心得た人で私を十分愛してはくれたが、しかし実母に離れて以来祖母を母としていた習慣は相変らず続いて、継母が来てからも、やはり夜は祖母と寝た、もうその頃は乳を吸いはしなかったが、祖母も私を人手にかけず、私も祖母のみ慕った。
 私は子供の時一番楽しみだったのは本を読むことであった。その頃には絵本がいろいろあって、年齢に応じて程度が違えてあり、挿画には少しばかりの絵解《えとき》がしてあった。桃太郎やカチカチ山は最も小さい子供の見るもの、それより進んでは軍物語《いくさものがたり》であった。それには八幡太郎義家や義経や義仲などの一代記があった。こういう本は子供のある家にはどこにもありまた土産にもしたものであった。外へ出て絵草紙屋の前を通ると私はきっとせがんだ。私は玩具よりも絵本が好きなので、殊に沢山持っていた。
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