それから錦画もその頃盛んに行われたが、これも私は好きで沢山持ち、就中軍画が好きであった。菱田の祖父が在番《ざいばん》で来ている時は私のうちに同居することもあった。この祖父は外出をするごとにきっと私に錦画を買ってくれた。だから私は祖父が外出すると楽しんでその帰りを待った。
 私は絵を見て楽しむ外に、またその画を摸写することが好きだった。小学校で図画を教える今時と違って、当時は大人でも大抵はどんな簡単な物の形も描き得なかった。それに子供の私がいろいろな物を描くので人が珍らしがり、自分も自慢半分に盛んに描いたのはやはり武者絵が多かった。
 私は武者で好きだったのは始めは八幡太郎であったが、少し年を経てから木曾義仲が大変に贔屓《ひいき》になった。その頃は九郎判官《くろうほうがん》義経を贔屓にするというのが普通であったが、私は義仲でなくちゃならなかった。絵本でも錦絵でも義仲に関した物を非常に喜んだ。義仲があんな風に討死したのが可哀そうでならなかった。従って静より巴御前の方が好きであった。第一勇気もあると思った。五、六歳になっては、更に源平盛衰記保元平治物語の絵入本を見ることを初めた。文字はまだ読めなかったが、よく父から絵解をしてもらったので、その筋をよく解していた。
 祖父は、私が少し大きくなってからはとんともう錦絵をくれぬようになった。私はこれをひどく淋しく思っていたが、祖父は在番が終って藩地へ帰る時に、特に買ってくれたのが右の保元平治物語の十冊揃いである。
 それから私は仮名ややさしい漢字がわかるようになって、盛衰記や保元平治物語を拾い読みした。これは八つ九つの頃であった。日本の歴史を知った端緒は実にこの二書であった。
 草双紙《くさぞうし》も好んだが、これは私のうちには無かった。隣の間室《まむろ》という家に草双紙を綴じ合わせたのがあったのを、四つ五つの頃からよく遊びに行って見ることにしていた。この家も常府であったが、藩地に帰る時に、私が好きだからというのでその草双紙を私にくれて行った。その後はそこにあったものの外の草双紙もよその家へ行ってよく借りて読んだ。草双紙は仮名ばかりだから、大概ひとりで読めた。私の内では父が古戦記を見せることは奨励したが、草双紙を見せることは好まなかった。当時の江戸の女たちは皆草双紙を大変に好んだものであったが、うちの二人の祖母もまた継母も田舎出で、そういう趣味がなかった。
 しかし私の実母は、死ぬ少し前に、始めて猿若《さるわか》の芝居を見た。三代目中村歌右衛門の血達磨《ちだるま》で、母が江戸へ出て来て始めてこの大芝居を見たのであった。その頃大概の芝居は直きに草双紙になって出た。母はそれを買って愛読していた。それで死んだ時に、祖母は母の棺へこの血達磨の草双紙を入れてやったと後に聞いた。かつて私のうちにただ一部あった草双紙はこうして亡き母のお伽《とぎ》に行ってしまった。
 継母も始めて田舎から出て来たものだから、一度は芝居を見せねばならぬというので、うちに嫁した年、即ち私の六つの年に、猿若二丁目の河原崎《かわらざき》座を見せた。その時継母が持って帰った、番附や鸚鵡石《おうむいし》を後に見ると、その時の狂言は八代目団十郎の児雷也《じらいや》であった。この時継母と同行したのは山本の家族であった。それから母にのみ見せて祖母などに見せないのは気の毒だというので、父は大奮発して、更に曾祖母と祖母を見せにやった。私はその時ついて行った。これが私の芝居見物の始まりであった。同伴したのは心安い医者などや、上屋敷にいた常府の婆連で、桝《ます》を二つほど買切って見た。
 三田一丁日の屋敷から猿若まで二里もある。女子供はなかなかたやすくは行かれぬ。駕籠《かご》は大変に費用がかかるので、今の汐留《しおどめ》停車場のそばにその頃並んで居た船宿で、屋根船を雇って霊岸島《れいがんじま》へ出て、それから墨田川を山谷《さんや》堀までさかのぼって、猿若に達したのである。
 私は暗いうちに起されて船に乗ったまでは覚えていたが、それから寝てしまって、目の醒めたのは、抱かれて河原崎座の中に這入る時であった。まだ灯がカヤカヤと点《つ》いていた。後に番附や鸚鵡石で知ったが、この時は一番目が嫩軍記《ふたばぐんき》、中幕勧進帳、二番目が安達原で、一ノ谷の熊谷は八代目団十郎、敦盛は後に八代目岩井半四郎になった粂三郎、相模は誰であったか今記憶せぬ。勧進帳は、富樫が八代目団十郎、弁慶は七代目団十郎、即ち海老蔵であった。海老蔵は一世一代というので、実に素晴らしい人気であった。二番目は二代目嵐璃寛が貞任と袖萩の二役を勤めた。私が小屋へ這入った時は既に始まっていて、平山ノ武者所が玉織姫を口説いてから手にかけて殺す所であった。この平山は浅尾奥山という上方役者であった。
 そのうち敦盛は馬で花道から出て来た。熊谷が扇で招きかえす。太刀打になる。それは私も古戦記や錦絵などでよく知っている事であったからよく解って、興を催して見ていると、暫くすると敦盛は甲冑を解いて、手を合せて坐った。はてなと思っていると、熊谷が後ろにまわって悲しんだ末、首を打った。盛衰記とは筋が違うので変なことだと思った。それからあの平山ノ武者所が花道のうしろから大きな声で何か怒鳴った時、私は不意を打たれて喫驚した。
 三段目になって、藤ノ方が笛を吹いていると障子にぼうっと、敦盛の影がうつッたのをよく覚えている。障子をあけたのを見るとそれは甲冑の影であったのだ。熊谷が首桶を携えて出ようとするおり、奥から義経の声がして、やがて出て来る。すると藤ノ方と相模とが驚いて左右に倒れたような姿になった時、いかにも事々しい心持がした。甲冑をぬぐと熊谷が黒い衣の坊主になっていたのも変に思った。
 勧進帳になったが、これも盛衰記にあるのと筋が違っているので、十分にはわからず、ただ延年の舞ぐらいが、少々目さきに残っている。安達原では、八幡太郎の殿様姿や、貞任の束帯姿が、いつもの甲冑と違っているのに不審をした。宗任の書く『我が国の梅の花とは……』は、最前《さいぜん》お馴染みでよく分かった。
 その頃芝居の弁当といえば幕の内といって、押抜きの飯と煮染《にしめ》と漬物で、甚だ淡白な物であったが、私は珍しく食べた。私は芝居という所へ始めて這入ったのだから、周囲にあまり人が沢山おり、むやみに騒がしいので、怖いような気がして、舞台と共に見物席の方にも絶えず気を配って、どうも落着かなかった。
 十一歳で家族一同松山へ帰ることになったが、その間に私の家族が大芝居を見たというのは、唯この各《おのお》の一回のみであった。その頃の藩士の生活は、国もとの方でも藩邸でも極めて質素なもので、そうせねば家禄では足りなかった。
 かくの如く十年間に唯一回の大芝居見物でも、家族は非常に満足し、またこれだけの事が父の大奮発であったので、まことに大芝居を見るという事は容易な事ではなかった、小芝居になると、祖母などもその後時々行って、その都度私も伴われた。
 その頃は大芝居と小芝居とは劃然とした区別があったもので、大芝居の役者は決して小芝居には出なかった。小芝居は江戸に沢山あった。私どもの屋敷から行ける所では、まず金杉《かなすぎ》の毘沙門とか、土橋《どばし》とか、采女原などにあって、土橋では鈴之助という役者が評判であった。毘沙門の小芝居で切ラレ与三《よさ》を見たことを覚えているが、誰がやったのか役者の名は忘れた。与三郎が残酷に切られて、血だらけになったのを、とど俵に押込んで担いで行くのを見た時、いかにも怖しくまた可哀そうに思った。いつであったか土橋の芝居へも行くことになって途中まで出掛けた所、もう楽になっていると聞いて引返した事があった。その時よほど残念に思ったと見えて、いまだにそれを覚えている。小芝居の最も盛んであったのは両国であったが、これは屋敷から遠いので行かれなかった。こういう小芝居を総称して『オデデコ芝居』といった。大芝居を見たという事は大変に自慢になったけれども、オデデコ芝居を見るという事は何の面目にもならなかった。だから皆内々で行ったものである。
 私の八歳の時に、継母は男の子を生んだ。大之丞と名づけられた。そこで私は始めて弟というものを持ったのである。年は七つも違っていたが、それでも弟が少し生い立って来ると、随分喧嘩もした。大之丞が私の絵本などを汚すと、いつも私は腹を立てた。
 私はもう芝居も知り草双紙にも親しんだが、かの間室から貰った草双紙の綴じたのの中に、種彦《たねひこ》が書いた『女金平草紙《おんなきんぴらぞうし》』というのがあった。この草紙は女主人公が『金平《きんぴら》のお金《きん》』で、その夫が神野|忠知《ただとも》にしてある。この人の句で名高い『白炭や焼かぬ昔の雪の枝』というのが、或る書には『白炭は』とあって名も種知としてある。この異同から種彦が趣向を立てたものであった。その関係からこの本には他のいろいろな句ものっていた。
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茶の花はたてゝもにても手向かな
軒端もや扇たるきと御影堂
角二つあるのをいかに蝸牛
元日や何にたとへむ朝ぼらけ
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というもあった。これらを読んで面白そうなものだと思ったが、それが三十幾年の後に『俳人』などと呼ばれる因縁であったといわばいえる。
 この草双紙の筋は、忠知が或る料理屋で酒を飲んでいると、他の席にいた侍のなかまが面会したいといって来た。忠知はそれを面倒に思って、家来に自分の名を名乗《なのら》せて面会させた。すると、その家来が悪心を起して、その席の一人の侍の懐中を盗んだ。それがすぐ発覚したので同席のなさけある一人が、その家来を刺殺して、忠知は過ちを悔いて自殺したといい触らした。この事が後世に伝わり、忠知は切腹したという事になってしまった。忠知はこの異変を聞いて、もとは自分の一時の疎懶《そらん》ゆえと後悔したが、もはや追付かず、表向きに顔を出すことが出来ぬ身になり、その後、金平のお金という女と夫婦になり、そのお金の親の仇を討つというのが大団円になっている。
 こんな複雑な筋のものも段々読み得るようになったので、いよいよ草双紙が好きになった。私が八つ九つの頃に見たのは三冊五、六冊ぐらいの読切り物で、京伝種彦あたりの作が多かった。それから或る家で釈迦八相倭文庫《しゃかはっそうやまとぶんこ》を借りて来て読んだが、これが、長い続き物を見た始まりで、こういう物は一層面白い物だと思った。この本で釈迦の事蹟の俤を知り、後日仏教を知るその糸口はこの本で得たともいえる。『白縫譚』『児雷也豪傑譚』なども追々と読んで行った。
 私は九歳の時君侯へ初めて御目見《おめみ》えをした。御目見えをしないと、いかに男子があっても、主人の歿した際、家禄が減ぜられる定りであった。それで男子は八歳以上になれば、君侯の御都合を伺って、御目見えをして置くのである。私もこのお目見えの時は上下を着用して上屋敷へ行った。なんでも一日か十五日かの式日で、諸士に御面会あるそのついでにお目見えをしたのであった。そばには父が附いていてくれたが、怖いような気がした。このお目見えを済ました子を『お目見え子』といって、その翌年から君侯に対して年賀もするし、その君侯が亡くなれば葬儀を見送り、法事の際には参拝して饅頭などを戴くことになっていた。
 私のお目見えをした君侯は勝善公といって、その後間もなく亡くなられたので、私も上屋敷へ行って葬儀を見送った。葬儀の場合にはたとえ君侯といえども柩は表門から出すことは出来ず通用門から出すのである。表門から死人を出すという事は、幕府から賜わった屋敷ゆえ憚るのである。士以下の葬儀は別に無常門というがあってそこから出した。この葬送の時目についたのは、君側の小姓の上席二人の者が髷を切って、髪を垂らしていたことである。これは徳川の初め頃であれば追腹《おいばら》をすべき者であるが、それは禁制になっているので髷を切って、君侯の柩の中に収めて、その意を致す事になっているのである。
 私どもの内では
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