料理屋へ行くということも甚だ稀であった。或る年向島の花見に祖母はじめの女連れに連れられて行った。その帰り途に、浅草雷門前の女川《おんながわ》田楽《でんがく》で夕仕度をしたことを、珍しかったので今も覚えている。その内庭に池があって金魚が居たのを面白がって私は眺めた。その頃私の隣家に父の同役の松田というが居て、その細君が亡くなって、後妻を娶ったが、これが頗《すこぶ》る美人であるというので、屋敷内で大評判であった。その細君もこの花見に私どもの一行に加ったのであったが、後に継母の親戚の山本が来て、『松田の箱入美人を、菜飯《なめし》田楽へ連れて行ったのはひどいじゃないか』といって笑った。
この山本は、こういう戯言を吐くほど磊落な武人でよく絵を描いて、殆ど本物に出来た。私も時々この人の絵の真似をした。この人は、その頃はまだ多くの人の食わなかった獣肉をよく食べたもので、私の家でも時々は猪豚などを煮て、山本にも食べさせ、父や私も食べた。祖母などは見向もしなかった。
この肉は、江戸中でも、売る店が多くはなかった。私の藩邸近くでは、飯倉の四辻の店で買った。今の三星という牛屋がそれである。この頃は、肉類に限って、古傘の紙をめくったのを諸方から集めて置いてこれに包んだものである。
或る時、父の弟の浅井半之助という者に、鰻屋へ連れて行ってもらったことがあった。また知合いの中堀藤九郎という人が、シャモ鍋の店へ連れて行ってくれた事があった。大塚という内の子供とよく遊んだものだが、その家来が子供を連れて行くのに誘われて、永坂の更科蕎麦へ行ったこともあった。これらは人込みの騒がしい所で食べることであり、中堀や大塚の家来が酒を飲んで酔っ払うまで居たので、それが子供心に厭わしく感じ、早く帰りたくなって、食べる物も旨く思わなかった。
父とは、料理屋は勿論、一緒に外出するということはなかった。この頃は男子は婦人と共に邸内は勿論邸外に同行する事は余りなかった。殊に父は藩の枢要の役をしていたから、なお厳重であった。私の知る所では、祖母や母なども、父と共に同行した事は一回も無かった。また男の子と女の子と一緒に遊ぶという事も出来なかったもので、ずっと小さい頃には私も山本の内へ遊びに行って、そこの女の子と時々遊ぶこともあったが、七、八歳の頃からはそれも出来なくなった。
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二
子供の頃に最も楽しかったのは正月であった。元日には君侯が登城をする。その時に限り上下でなく衣冠《いかん》を着け天神様のような風をする。供もそれに準じた服を着た。私の父も風折《かざおれ》烏帽子《えぼうし》に布衣《ほい》で供をした。まだ暗いうちに、燈のもとでこの装いする所を、いつも私は珍しく見た。君侯の姿はよく見たことはなかった。唯父から聞いたのみである。
正月には万歳《まんざい》が来た。太夫は皆三河から来たが、才蔵は才蔵市で雇うのであった。その頃は各大名屋敷とも万歳を呼んだ。私の藩主は勿論私の内も呼んだ。但し君侯へ出る万歳は大小をさしている格のよい万歳であったが、私どもの内へ来るのは一刀であった。万歳にもそういう地位の等差があった。二刀のは礼物を多くせねばならぬ故、私の内などの身分では一刀のを呼ぶのであった。君侯でなくとも歴々の者は二刀のを呼ぶのであった。私どもは内の万歳を見る外に、よその万歳をも見て歩いた。万歳の尻には子供は勿論大供も跟《つ》いて行った。才蔵は随分しつこく戯れたもので、そこに居る若い女などにからかい、逃げ出すと勝手向までも追掛けて行くこともあった。舞が終ると、内では膳に米を一升盛り、銭を包んで添え、そしてちょっと屠蘇《とそ》を飲ませた。
正月の遊戯で盛に行われたのは凧揚げであった。男の子は大概凧を買ってもらい、またよそから贈られもした。各《おのおの》これを揚げて楽《たのし》むこともするが、唯揚げるばかりでなく、凧合戦をする事が盛んであった。これは子供でなく、二十歳近くの者が先立ってやった。合戦というのは隣屋敷の凧とからまし合いをすることである。私の屋敷では、北隣は久留米藩有馬家、南隣は島原藩松平主殿正、西は砂土原藩小さい方の島津であった。私どもの屋敷ではこの三つの藩邸と凧合戦をした。からんで敵の凧をこちらへ取ったのが勝となっていた。遂には罵り合《あい》を始め、石の投げ合までにも及んだ。そこで藩々の役人等は、互に相済まぬというので青年を戒めたが、その当座は止めていても、ほとぼりが醒めるとまた始めた。それでまずは黙許という姿であった。
からまし合いは、とても子供では出来ないので、大きい人に貸して、戦に勝つと敵の凧はその勝凧の持主なる子供のものになるので、自分の凧が殖えるので喜んだ。もっとも大概からまし合った凧は折れ破れて揚げることなど出来ぬものであったが、分取品を得た誇りがあったのである。あまり大きい凧は不利益であった。まず西の内紙二枚半というのが戦に適当で、四枚六枚八枚のは唯揚げて楽しんだ。戦には風の向きでよほど得失があったが、巧な者は手繰ることが早いから風の向きのみで勝敗が決するという事もなかった。凧の糸には多く小さな刃が附けてあって、それで敵凧の糸を切るのであった。
藩邸の凧揚げは右の通りの有様であったが、なお町家でも凧揚げをした。これは往還でも揚げたが、多くは屋根にある洗濯物の干し場で揚げた。町家同志ではからまし合いはなかった。また藩邸のが町家のとからまし合いをするという事は決してなく、そういう事をすると恥辱としてあった。
凧の種類をいえば、今もある長方形のものの外に奴凧があった。これは主として小さな子の揚げたのだが、奴凧でもかなり大きいのもあった。障子骨というのは縦に三本骨がある凧で、からますには丈夫であるが、それだけ手繰るには不便であった。縦一本の方が工合が宜かった。凧の面には多くは『龍』とか『寶』とか『魚』とかいう文字が書いてあった。絵凧には達磨、金時、義家、義経などが描いてあって、なお障子骨になると、『二人立ち』『三人立ち』といって、二、三人の武者が描いてあった。これは価も高かったので、こういうのを持っている事は誇りになった。凧糸は凧の大小に従って太さに等差があったが、からます時には凧の大きさよりは一、二等ずつ上の太い糸を用いたものである。
鳥追《とりおい》は藩邸には来ないのであったが、町へ出るとよく見掛けた。深い笠をかむり綿服ではあるが小綺麗な物を着て、三味線を弾いて歩いた。これはいわゆる『非人』から出たので、この鳥追の中から『鳥追お松』という名代の女も出たのだ。鳥追の女は正月以外の時には浄瑠璃などを一くさりずつ語って歩いたもので、また端唄なども唄ったかと思う。
正月の中旬になると、甲冑のお鏡開きがあった。武門では年始に甲冑を祭り鏡餅を供えたので、それをお鏡開きの時に割って汁粉にして食べるのだ。君侯の館でもこの事をして、おもなる藩士に振舞われた。めいめいの家でもやった。もう鏡餅は堅くなってるので斧を以て勇ましく打割ったもので、汁粉の膳には浅漬を唯一つ大きく切ってつけた。『ひときれ』という武門の縁起で、斧を以って割るという事も陣中のかたみである。
『ひときれ』といえば、その頃江戸では『辻斬』が実に頻繁に行われた。これは多く田舎出の侍が新身《あらみ》の刀を試すとか、経験のために人を斬るので、夜中人通りの淋しい処に待ち構えて通行人を斬った。斬られるのは大抵平民であった。私が小さい頃稀に邸外へ出たのでも、よくその死骸を見た。斬られた死骸は、しばらく菰《こも》を着せてその場に置いて、取引人が引取って行くのを待った。直きに引取人が出ないと、桶に入れて葭簀《よしず》で巻いて置いたものである。
或る時、私の内の藩から渡った米俵に鼠が附くというので、家来が葭簀で巻いたことがあった。私はそれを見て、辻斬のように見えるから厭だ、といって取らせたことがあった。
その頃は、今の芝の公園と愛宕の山との界《さかい》の所を『切通し』といった。ここは昼の見世物や飲食店が出て、夕方には一面に夜鷹の小屋が立って、各藩邸の下部などが遊びに出かけて、随分宵のうちは賑ったが、これが仕舞うと非常に寂しくなった。その時分になると、ここで辻斬がよくあった。『切通し』という名は勿論山を切って道を通したという意であるが、私は子供心にしょっちゅう人を切るから、『切り通し』だということと思っていた。
芝の増上寺の境内は、今の公園の総てがそれで、その頃は幕府の御菩提所というので威張っていた。私の中屋敷から愛宕下の上屋敷へ行くのには、飯倉の通りから、この切通しを回ったが、赤羽から増上寺の中を抜けて行くと大変近いのである。私どもの君侯は上屋敷に居られ、中屋敷には若殿が居られたので、この間の藩士の往来は頻繁であった。これらが増上寺の境内を通るので、その抜ける事は許されていたが、もし弁当を携えているとやかましかった。大抵藩士は身分により、一人二、三人の家来を連れており、草履取《ぞうりとり》が弁当を持ったものだが、弁当を認めると『止まれ』といわれて中を検査された。それは『なまぐさ』があるか否かを検《しら》べるので、あると境内を汚したというので事面倒に及んだ。藩邸に懸合って、遂に藩主までが首尾を損することになった。それで弁当だけは飯倉から遠回りをすることになっていた。しかし少しの賄賂を使うとなまぐさの入った弁当も無事に通ることが出来た。
私も家族に連れられて増上寺境内は度々通った。怖い心持がいつもした。あの赤羽から這入ると左側に閻魔堂がある。あれも怖かった。長じて後もその習慣で、あの閻魔堂の前は快く通ることは出来ない。その隣に瘡守《かさもり》稲荷があって、天井に墨絵の龍が描いてあった。それも気味が悪かった。この稲荷は維新の神仏を分ける際に、和蘭《オランダ》公使の前に移された。前には東照宮の南側の所に天神様もあった。
東照宮の祭の日にはいつも参詣をした。今の表門はその頃台徳院廟の方へ向いており、外には塀があり、中は石が敷いてあった。この表門から中は履物をつけることを禁じてあったので皆|跣足《はだし》で這入った。増上寺の本堂は明治の初に焼けたが、総て朱塗で立派なものであった。本堂の後ろの黒本尊もやはり跣足で這入ったものである。あの前にはお舎利様があるというので拾う者もあった。
増上寺に対して、上野の寛永寺が幕府の御菩提所であった。これは三月の花見の時の外は、道が遠いから行くことはなかった。この二つの寺へ将軍が参詣される、いわゆる『御成《おなり》』の日には、その沿道の屋敷々々は最も取締を厳重にし、或る時間内は全く火を焚く事さえなかった。沿道の大名屋敷では、外へ向った窓には皆銅の戸を下ろし、屋敷内の者は外出を禁ぜられ、皆屋敷内に謹慎していた。幕府から外出を禁じたのではないけれども、もし誰か不敬の行為でもすると、藩主の首尾にも関係するから、各藩主が禁じていたのである。
藩邸内に住んでいる者の外出について話してみれば、まず私どもの如く家族を携えて住んでる者は毎日出ても差支《さしつかえ》無い。夜遅く帰っても許された。風呂は歴々の家の外は、自宅に無いので、邸外の風呂屋へ行った。邸内にも共用の風呂はあったが、これは勤番者が這入るので、女湯というものは無かった。だから内の家族などはいつも外の風呂へ行かねばならなかった。宮寺の縁日や花見などにも私どもは度々出かけたが、しかし朝六つ時より早く外出する事は出来なかった。
その頃盛んな山王神田の祭などは、人が雑沓するから、もし事変に出合って藩の名が出るといかぬというので、特に外出を禁ぜられていた。そこでこの祭を見ようと思う時には、病人があるから医者へ行くと称して、門を出たものである。藩の医者は、邸外に住んでいる方が、町家の者を診ることも出来て収入が多いので、よく外に住んだ。この事は藩でも許していた。それで医者へ行くということを外出の口実にすることが出来た。だから祭の日などは俄《にわか》に邸内に病人が殖えた。芝居に行く時には朝が早いから皆病人になっ
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