て行った。この事は黙許されていた。
 いつであったか琉球人が登城するというので、それを見物に行ったことがあった。その頃は支那人でなくても、琉球人でも皆『唐人』と呼んでいた。私は家族に連れられて、いずれも例の病人になって朝早くから、芝の露月町の知合いの薬屋へ行き、そこの二階で『唐人』の行列を待った。大変寒い日であったが、そこで蒸饅頭のホカホカ湯気の立つのを食べた旨さを今もよく覚えている。また錦画の帖を見せてもらった。それには役者の似顔絵が多かった。似顔絵というものをこの時始めて見た。この日何か事故があって、肝心の『唐人』の登城は中止になったので、大いに失望して帰った。
 花見は大概行くことになっていた。多くは上野と向島と御殿山である。上野の花見の時は、あそこでは食べ物が山内には無いので、皆必ず弁当を携えて行き、毛氈を敷いて、酒など飲むことであった。茶と酒の燗などは茶店に頼んだ。上野へ行くと、多くの女が鬼ごっこをしてる様を珍しく見た。何でも私が八歳頃のことであったが、屋敷から上野までの往復とも歩いて大変人に賞められた。私は祖母育ちゆえ、誠に意気地が無く、外へ出る時は必ず人におぶさって行ったが、或る時途中で、私より少し年上の女の子が負ぶさって行くのを見て、甚だ見苦しい姿だとつくづく思い、自分の負ぶさった形も、人から見たらあんなに見苦しいのだろうと思って、もう再び人の脊に依るまいと決心したので、それで上野の往復にも、人々が負んぶしようしようといったのを肯ぜず、我慢して歩き通して驚かしたのであった。今日でも私はまず年の割合によく歩き得る方である。
 浅草方面へ行くのは、まず梅屋敷の梅見、それから隅田川の花見であった。或る時は屋根舟で花見したことがあった。舟の中から堤を通る知人を見て、私の連れの人が徳利を示して『一杯やろう』といって戯れたことがあったのをおぼえている。一体私は舟を好かない方で、その日も遂には気分が悪いといって寝てしまった。
 人の通行に駕籠に乗るという事は、余儀無き急用の際か、あるいは吉原などへ行く時の外に無かった。遊里へ行く者はケチと思われまいとして乗りもしたが、駕籠賃は大変高かったので、普通の場合には大抵乗らなかった。駕籠舁《かごかき》は多く辻にいて客に勧めた。彼らは少し暖かくなると褌《ふんどし》一つの裸で居た。荷車曳きは寒暑とも通じて裸であった。宮寺には、寒中裸でお参りをする者があった。これは病気が平癒したら裸参りをさせますという祈願を籠めて、それが叶ったので遣らせるのであった。また縁日などに乞食坊主は寒中裸で水を浴びて人に銭を貰った。これは人のために代って行をしているという意味でやっていたのである。今日もある寒詣りもその頃は裸であった。
 私の藩邸から近い縁日では、有馬邸の水天宮が盛んで、その頃江戸一番という群集であった。毎月五日であったが、子供や女連だけでは迚も水天宮の門の中へ這入ることはむずかしいので腕力のある家来を連れて行って、それの後から辛うじて這入った。履物が脱げても拾うことは出来なかった。興行物や露店なども盛んであった。以前は私の頃よりも一層盛んであったそうだが幕府の姫が有馬家に嫁せられて、御守殿《ごしゅでん》が出来てから、少し静にせよとのことで、それから多少この縁日も衰えたとの事である。
 その次に縁日の盛んなのは、十日の虎ノ門の金毘羅であった。これは京極の邸に在った。その邸の門を出入することも水天宮の如く甚だ困難であった。次には廿四日の愛宕の縁日で、よくこの日は私は肩車に乗って男坂を上ったものだ。
 常府の者の家族の外出は比較的自由であったが、勤番者は、田舎侍が都会の悪風に染まぬよう、また少い手当であるから無暗《むやみ》に使わせぬようとの意もあって、毎月四回より上は邸外へ出ることは許されなかった。その中二回は朝から暮六時まで、二回は昼八時から六時までであった。勤番者はこれを楽しみにした。彼らはその日になると目付役より鑑札を貰って出《い》で、帰るとそれを返付した。
 勤番中にも度々江戸に来た者や、或る事情で一年でなく二年以上勤続した者は、古参といって、新参の勤番者に対して権力を持ち、江戸の事情を教えて注意を加えもした。新参は江戸へ来ると間もなく古参に連れられて市中を見物した。その頃の赤|毛布《ゲット》である。これらの田舎侍は大芝居の見物と吉原の女郎買は一、二回しないと田舎への土産にならぬというので、必ずしたものである。夜は外出が出来ぬから吉原では昼遊をした。吉原の昼間のお客といえばまず田舎侍であった。芝居は刎《はね》が夜に入るから一幕は見残して帰らねばならなかった。古参になるとずるく構えて、大切まで見て帰った。しかし時刻が切れるので、高い駕籠を雇うか、さなくば猿若から屋敷までひた走りに走りつづけた。たまたま履物が脱げても顧みずして走ったのである。
 その頃侍は私用の外出の時は雪駄を穿いた。表向きの供のおりや礼服を着したおりは藁草履を穿いた。下駄は雨の時に限った。女はその頃も表附の駒下駄を穿いた。男女とも雨天には合羽というのを着た。今も歌舞伎芝居にはその形が残っている。そして大小の濡れるのを防ぐために柄袋《つかぶくろ》をかけた。
 門限は厳重ではあったが、一面には遅刻する者をかばうために、暮六《くれむつ》時の拍子木を打ってまわる仲間は、なるべくゆっくりと邸内をまわって、それから門番に報じて門をしめさせた。もう六ツの拍子木が聞えるのに、まだ某《なにがし》は帰らぬというと同僚の者は心配して、拍子木打ちの仲間に聊か銭をやって、一層ゆるゆると廻らせた。あるいは、拍子木がもう門へ行きつくという際に仲間を抱き留めて、同僚の駆込むのを待つというような事もやった。門限に全く遅れたとなると、国許へ追い帰され長い間謹慎を申附けられるのである。
 これは少し古い話しだが或る時新参の勤番者が、二人連れ立って向島へ出掛けた。あちこち歩いているうち、或る立派な庭園の前に来掛った。二人は中を見ても宜かろうと思って、這入って方々見まわって、とある座敷の前へ来たのでそこへ腰をかけた。すると一人の女が出て来たので、『酒が飲めるか』と聞いて見た。女は『かしこまりました』といって奥へ行き、やがて酒肴を出した。十分に飲食してさて勘定をというと、女は『御勘定には及びませぬ』といった。うまい所もあったものと思いながら、二人は帰って、得々としてこの事を古参に話した。古参は不審を起し、向島にそんな所は無いはずだがといったが、間もなくそれはその頃即ち十一代将軍の大御所様《おおごしょさま》の御愛妾の父なる人の別荘とわかった。この別荘の主人は娘の舌を通じて隠然賞罰の権を握っていた。それで諸大名から油断無くここへ賄賂を送り、常に音問していたのである。勤番者風情でそこへ踏込み、大胆にも飲食をも命じたというのであるから、藩の上下は顔色を失った。『どの藩の者ということを聞かれはしなかったか』と古参が聞くと、『なるほど代物はいただきませぬが御名札をいただきたいといったから、松平隠岐守家来何の某と書いて置いて来た。』との答に、いよいよ騒ぎ立ち、藩侯にもどのような禍がふりかかろうも知れぬと、それからいろいろ評議をして、結局、留守居役即ち当時の外交官が、多額の金子を持参し、駕籠に乗り供揃いで向島へ赴き、そこの用人に会って、田舎侍がかくかくの粗忽《そこつ》を仕りましたる儀何とも恐入る次第で御座りまする、どうか御許し下さるようと、ひたすら詫びをして、金子を出した。用人は奥に入り、やがて出て来て、『主人こと今日は珍しい客来で興を催した次第で御座る。』といっただけであった。賄賂のきき目は実に鮮かであった。留守居役は勇んで立帰り、一同も始めて安堵した。かの二人は割腹の覚悟をしていたが、まずまず命拾いをした。この二人のうち一人は私の父ぐらいの年輩で、吉岡某という者であった。今一人の名は忘れた。
 勤番者はよく失策をしたもので、かの蕎麦屋で蒸籠《せいろ》へ汁をぶっかけること等は、少しも珍しい事ではなかった。勤番者は大概一つ小屋に一緒に居た。今の寄宿舎といった風になっていた。勤めも忙しくはないので皆無聊でいたが、さればとて酒を飲んで騒ぐことも出来ぬので、碁、将棋、または貸本を読んで暮した。貸本屋は高い荷を脊負って歩いたもので、屋敷でもその出入を許した。古戦記の外小説では八犬伝、水滸伝、それから御家騒動は版にすることは禁ぜられていたので写し本で貸した。種々な人情本や三馬《さんば》等の洒落本もあり、春画も持って来るので、彼らはいずれも貸本屋を歓迎した。私も子供の時に親類の勤番者の所へ行って、春画を見せられたことを覚えている。彼らのこんな呑気な生活も、異人と戦争をする準備をせねばならぬ時に至って、追々忙しくなった。彼らは邸外へも出て調練などすることになった。
 異人について騒ぎ出したのは嘉永六年から安政元年にかけての事で、私の七つから八つの年へかけてであった。八つの年には、今度こそきっと軍《いくさ》が起るという噂であった。後に知った所によれば、交易を許さねば軍艦から大砲を打込むというので、こちらも対抗せねばならぬといって幕府も諸侯も騒いだ、武器の用意の揃わぬ藩では、役に立つ立たぬを問わず急いで武器を買集めた。私の藩邸は比較的武器の準備がよく出来ていて、侍以上の者は以前から年々武器の検査をされることになっていた。しかし実戦という事になるとそれは不十分なものであった。
 私の藩は今の鈴ヶ森あたりから、大井村、不入斗《いりやまず》村へかけての固めを言付かり、私の父もその頃側役から目付に転じていて、軍監をも兼ねるという枢要な地位に居たので、その固めの場所へも勤務した。なんでも大砲が足らぬのに大変に皆が当惑したそうであるが、我が藩では田町の海岸にも下屋敷があるので、ここをも固めねばならぬけれども、大砲が無いので、戸越の下邸の松の立木をたおして、皮を剥ぎこれに墨を塗って大砲に見せかけ、土を堅めて銀紙を貼ったのを弾丸と見せかけ、これを大八車に積んで、夜中に田町の屋敷へ曳込んだということも聞《きい》ている。或る藩では寺の釣鐘を外して来て台場に飾ったそうだ。素晴らしく大きな口径の砲に見えたことだろう。
 異人即ち米国人と最初の談判は伊豆の下田でしたが、次のは浦賀ですることになった。その際、黒船が観音崎を這入る時には、黒雲を起してそれに隠れて、湾内に入ったという評判であった。蒸気の煙をそう見たのであろう。その時の提督はペルリとアダムスという二人であったが、談判の折、幕府の役人の画心のある者が、二人の顔を窃かに写生した。その画がひろく伝写されたのも見た。ペルリは章魚《たこ》のようで、口もとがペルリとしていると思った。アダムスは大変に大きな口を開いていた。これは欠《あく》びでもした所を写したのであろう。
 こんな物を見て珍しがりもしたが、軍がいつ始まるかわからぬという心配は皆抱いていた。軍が始まったら、三田邸は海岸に近い故、直ぐ立退きをせねばならぬ。まず君侯の母にあたる後室と、奥方と、姫君と、若殿の奥方と、それに属する大勢の奥女中が立退くと、その後から邸内の女子供が皆立退くということに定まり、立退の合図としては邸内を太鼓と鐘を打って回るという触れが出た。いつこの鐘太鼓が鳴るかとビクビクしていた。或る夜などは、今夜はきっと鳴るという噂で、夜中に飯を炊いた。弁当は飯に梅干と沢庵を添えて面桶に入れ、これを網袋に入れて腰に附けるのだ。私の弁当は祖母と一緒というのであった。まず行先きは君侯の親類の田安の下屋敷で、軍の模様でそれ以上どこまで行くかわからぬとの取沙汰であった。
 しかし戦端も開かれず、警戒も解かれ、黒船は一旦帰ることになり、もとの太平に立戻った。全く太平になった訳では無論なく、唯ちょっと猶予することになって、いよいよ和戦いずれにか決せねばならぬという国家の一大事になっていたのであるが、太平に馴れた江戸の士民は、全く太平になったと思い込んでいた。けれども幕府や藩々の枢要の人達は油断なく戦備を整えるので
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