一方に強く傾いて波も一方のみに受けるので、船体は甚しく傾斜する。私は始めてのことだから、こういう時には覆没を怖れた。風が悪くて港に長く止まる際には、港へ上がって風呂をたててもらって、相当の礼をして這入った。船の艫の方に小さく囲った処に穴があって、そこから大小便をすることになっているので、自分の船のはわからぬが、よその碇泊船のは、その穴から汚い物の落ちる所が見えるので、私は可笑《おかし》かった。
当時ノジという小さな漁船があった。それは一家内乗込んで、原籍も無く、一生を船中で暮す者の称である。このノジがよく碇泊中に、肴を買ってくれといってやって来た。大変に安くて捕り立てであるのでうまい。或る時私どもはこのノジから黒鯛を買って俎板で割くと、その腹から糞が出て来て、大弱りをした。黒鯛は他の魚よりも人糞を食うもので、これは碇泊舶の糞を食ったものらしかった。
一行の船は段々と帰路が捗取って、もはや讃岐の陸近くへ来た。このあたりで航海者はよく金毘羅《こんぴら》へ向ってお賽銭を上げたものである。それは薪を十文字に結わえ、それに銭を結付けて海に投込むのである。こうした賽銭は漁師などが見付けると、船に入れて、人に托して間違なく金毘羅へ届けたものである。この手数は全く信仰からしたもので、それを私する者は決して無かった。今日でもそうであるが、船に乗る者は深く金毘羅を信じたものである。
私どもはかねて途中に金毘羅参詣をするという事を藩に願っておいたので、参詣をした。社は朱塗金金具で美々しいものであった。社前に夥しく髪の毛が下っていた。これは難船せんとする際、お助け下さらば髪を切って捧げますと誓った人が、後日捧げたものである。ここからまた船を出して、幾日かを経て、やっと藩地の三津の浜に着いた。
この着いたことを直ちに藩に届け、親類にも告げた。間もなく親類どもがやって来た。継母の里の春日からは使が重詰を持って来た。その使は、折柄|衣山《きぬやま》にさらし首があるので、まわり道をして来たといった。三津の浜から城下までは一里半もあって、その間に仕置場があったのである。
その晩は船で寝て、翌日上陸して、浜座敷という所を借りて、そこで入浴し、女連は髪を結いなどして支度をした。迎えに来てくれた親類がそれぞれ準備してくれたので、一行|悉《ことごと》く切棒駕籠に乗り、父は例の野袴をはいて、江戸から持って来た切棒に乗り、仲間等はカンバンを着て槍を立て草履を持ち、具足櫃もカンバンを著《き》た者が担ぎ、合羽籠といって、雨具を入れたものも城下から取寄せてあとに続かせ、行列揃えて城下に向った、父の如きはさほどの身分でもなくかつ不首尾で帰藩したものであるが、これだけの行列はせねばならなかった。
途中前にいった衣山を通る時三つのさらし首を見た。青竹を三本組み合わしてその上へさん俵を敷いてそれに首が一つずつ載せてあった。私はさらし首を見たのはこれが初であった。
藩地の住宅は、普通で帰った者は予め屋敷を賜わったものだが、不首尾で帰った者は、直ちには賜わらぬので、暫く借宅をせねばならぬ。私どもは城下はずれの味酒《みさけ》村の味酒神社の神主の持家を借りた。周囲は田畠で、少しの庭もあったが、全くの田舎住居で、私は道中で始めて見た田舎の景に、ここで毎日親しむことになったのである。
着いた日には親類や知人が沢山集り、こちらでもうけた物もあり、客の持参した物もあって一同が宴会を開いた。会う人は大概私の初対面の人であった。中には子供も居たが、打解けて遊ぶことは出来なかった。
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四
さて暫く経って、やや落つくと、私も十一歳になっているから、文武修行の場所へ入らねばならなかった。
私の藩は、三代前の藩主が明教館というを設け、これに文武の教授場を総て包括していた。就中学問所(漢学の)が根本になっていて、これには『表講釈』という講釈日があり、月に二回ずつは、士分徒士に至るまで、必ず聴聞に出頭せねばならぬ事になっていた。病気等でも届を出さないで欠席する者は、直ちに罰を受けた。おもなる士分の講釈日には君侯も来て聴かれた。
武芸の方は、弓術が四家、剣術が三家、槍術が三家、馬術が一家、柔術が一家で、これだけ明教館に附属した所に設けられて、各指南した。この師家には人々の望によって、自由にどこへでも入門することが出来た。馬術は木馬の型ばかりを教え、実際のは他の広い場所で教えた。
私はまず学問所へ入門することになった。その時は上下を着て、誰かに伴われて行った。行き着くと、学問所の教官に導かれ、講堂という広い堂へ行って、大きな孔子様の画像を拝し扇子を一対献ずる。これが入門の式であった。
その翌日から素読を教えてもらいに出た。学問所の課程は最初は素読で、まず論語を終ると一等となり、孟子と大学を終ると二等、中庸小学で三等、詩経書経で四等、易春秋礼記で五等となって、これで素読が終るのである。それから意味の解釈となり、講義や輪講等へ出席する。四書小学の解釈が出来ると六等になり、五経の解釈が出来ると七等になり、それで全課程を終るのである。私は江戸に居る時、孟子の半ばまで父から授かっていたから、その続きをここで習った。等を上るには試読《しとう》という教官の席で検査を受ける。それは、あちらこちらをあけて読ませるので、どこも読み得ると、終了と認めて何等と定められる。出来ぬ者は、更にさらえ直して来いといって叱られた。
常の素読は、『助読《じょどく》』という素読の終っただけの者や、寄宿舎に入って素読以上の事を研究している若者から教えてもらい、それの誤は教官たる先生が訂すのである。
この素読隊が三つに分れていて、私は三番隊に入った。最初論語は終っていたから、試読席で一等を受けた。先生は、「大変よく出来る。」といって賞めてくれた。孟子大学の終った時も好成績で等が進んだ。それでその年に中庸小学も終り、詩経の部へ進んだ。これは非常な進み方であるので先生は賞めた。勿論これは宅で父から教えてもらったからズンズン進んだのである。今日の課程の如きでなく、当時は力次第で右の如く進むことが出来た。詩経あたりへ行くと、私は大概自分で読んで、わからぬ所を先生や父に聞くという位に行ったから、素読は何らむつかしいものとは思わなかったが、詩経で小戎の篇の小戎※[#「にんべん+戔」、76−7]収、五※[#「鶩」の「鳥」に代えて「木」、76−7]梁※[#「車+舟」、第4水準2−89−64]、游環脅駆、陰※[#「革+引」、76−7]※[#「沃/金」、76−7]続、文茵暢轂、という所と、韓奕の篇の王錫韓侯、淑※[#「族」の「矢」に代えて「斤」、第4水準2−13−78]綏章、箪※[#「竹かんむり/弗」、76−8]錯衡、玄袞赤※[#「臼/勿」、76−8]、鉤膺鏤錫、※[#「革+郭」、76−8]※[#「革+弘」、76−8]浅韈、仗革金厄、という所だけは読みにくかった。
武芸の方は、まず剣術から始めたが宜いというので、三家中で橋本というに入門した。ここは新当流で宮本武蔵から伝った流だと聞いていた。この入門には寄親《よりおや》というものが入る。それで親類の奥平というのが、橋本の免状を得ている身分であったから、それを寄親に頼んで入門が出来た。この入門は稽古場で先生に面会をするだけのことで、それから先生と高弟達の宅を訪問して頼むのである。この事は学問所の時にも同じで、おもな教官のうちへは回ることになっていた。
武場は、藩地では地べたでする事になっていた。上には屋根が無いが、樗《おうち》の木が多く植えてあって、それでいくらか炎日を避けることは出来た。雨天は武場は休みであった。私の入門した頃はもう寒い頃であった。武場に入れば、直ちに裸になり、薄い木綿筒袖繻袢の腰までのを著、それに古袴をはくのである。そして先輩の人につかってもらい、時々は休む。同等の者が互角試合というをやる事もある。
やがて寒に入って、寒稽古が始まった。面小手腹当竹刀の外に大きな薪を一本ぶら提げ、朝の弁当も持って、朝暗いうちから出かけるのである。薪は或る場所へ集めて火をたいて温まるのであるが、周囲は先輩が占領して、我々は火に遠い所で震えていたものである。そのうち粥が大きな二つの桶に運ばれる。それに沢庵が大切りにして附けてある。これも先輩がさきへ食ったが、しかしかなり普及していた。この粥は一般の武場へ藩から奨励の為に賜わったものである。そしてかの持寄りの薪で沸かした湯が沸くと、各弁当を食べる。我々の食う時はいつも湯が無くなっていた。弁当の菜はめいめい有合わせを持って行く。藩地では私どもは、猪や鹿などを狩りして来たのを分けてもらい、または店から買って時々食べたので、この菜にも稀には獣肉を持って行った。すると外の者等が覗込んで、『ヤマク(山鯨)を持って来た。』とはいいさまドシドシ奪われてしまって、やっと一きれ位しか自分に食べられなかった。けれどもヤマクを持って行くという事は私どもの誇であった。この菜の掠奪は多くの者がやられたもので、中にはまず菜のなかへ自分の唾をはき込んで、掠奪を防ぐ者もあった。藩地でも獣肉は高価であったから、そう度々食うことは出来ないのである。
武芸のうちには明教館以外で大砲や小銃の稽古もした。小銃に入門をして或る許しを受けた以上は、銃を持って獣狩に行くことが出来た。まだその頃は、少し城下を離れた山には、鹿などが居たもので、それを打取って来れば、一部分を師匠及び高弟に贈る。なにがしが鹿を獲て帰ったと聞くと、近所からも少しいただきたいといって貰いに来る。それを乞うに任せて分ったので、鹿を得た家でも十分に一家で食うことは出来なかった。かかる有様であるから、ヤマクを弁当の菜に持って行って、皆が騒ぐのも無理はない。
私は撃剣へ入門をしたが、試合は頗る下手で、同輩と勝負しても常に負けた。頭をドンドン叩かれるのも痛いものであった。強く叩かれると土臭い匂いがする。それに反して、カタはうまかった。その頃カタのことをオモテといった。入門すると或るカタを習って、進むに従って段式というを貰って、段式相当のカタを習うことであったが、私のカタが一番よいといって、先生がいつも誉めてくれた。
その翌年の春に、君侯の御覧があった。君侯は学問所へは月に二回ずつ来て講釈を聞かれ、武芸の方は春秋二回御覧があった。この時は各流が日をかえて御覧に供するのだが、いずれも晴の場所として技倆を競ったものである。君侯が江戸詰をして居られる一年は、家老が代理をして、これを見分といった。この以外に目付の見分もあった。この御覧には、十五歳以上でなくては出られぬのであるが、学問所の方で三等を得ている者は、年が足りなくても、特に出ることが出来た。そこで私はすでに三等を得ていたから御覧に出て試合をしたのである。私の相手は籾山という者であった。うまくその御胴を打って、それから三番勝負で、私が勝を占めた。これはさきが拙かったからである。
手習ということは、江戸に居た頃は余りしなかった。尤も継母の姉婿の、かの絵をよく描く山本は、書もよく書くので、これに手本を書いてもらって習ったが、私は一体手習が嫌いであった。しかし藩地に来てからは、他の同年輩の者等と共に、どうしても手習をせねばならぬことになった。
藩の学問所は、読書は授けるが、手習は授けないので、別に師を選んで随意に入門することであった。私は武知幾右衛門(号は愛山また五友)という人の手習所へ入門した。この人は漢学者で、学問所の方でも教官をしており、私の父とは従来懇意であり、藩でも殊に烈しい攘夷党であった。その頃は父も同主義であったから親しくしていて、私を引立ててもらった。武知先生は維新後も生きていて、八十ほどで亡くなったが、死ぬまで髷を切らなかった。私の父も私も後には頗る開化主義になったので、そうなってからはこの先生によい顔はしてもらえなかった。
さて手習を始めた所が、よくも出来ず、面白くもないので、ちっとも進まなかったが、先生は漢学の方から、私の
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