私が附いているので、家庭の都合上やむなく、外の芸子で間に合わせたものと見える。私はこの時始めて芸子や舞子を見た。どうも祇園町というは面白い所だと思った。
 京都住居は僅か八ヶ月であったが、私はこの間に祇園町を知り、四条の芝居を知り、小芝居や寄席もしばしば行き、義太夫は暗記するまでに至って、私が後日こういう方面に趣味を辿ることが出来たのは、この京都住居が栞《しおり》となったのである。
 いよいよ京都を去るという前夜、ちょっとした別れの宴を内で開き、滋賀や千家等を招き、席の周旋には『山猫』という者が来た。山猫というのは、祇園町のでなく山の手の方の芸子を呼ぶ称である。誰かが『御留守居さんの出立に、山猫はちと吝い』といった。千家は頻りに祇園町行きを迫って『明朝間に合わせますからちょっと行きましょう』などといったが、父は応じなかった。
 帰藩については、元来なら行列を立てて伏見まで下るべきであるが、節倹主義から、高瀬舟に家族も荷物ものせて下ることにした。あまり見苦しいから止せという人もあったが、父は平気で実行した。この頃高瀬川の上流は田へ水を引くために水が流れていなかったので、特別に金を出して堰を切ってもらい、三条あたりから舟を出してもらった。
 これに乗って段々と行くと、少し先きは砂利であるのが、舟の行くに従って堰を切って水になる工合が甚だ奇であった。そのうち普通の川になってる所へ進んだ。そうして伏見に着いた。見送りの人に杯をあげて別れを告げ、また三十石の客になった。今度は昼船なので、まさか女の小便は出来ぬので、枚方で船を着けて用をすまし、日暮に大阪に着いて、屋敷に上り、一両日逗留した。かつて松の枝を投げて怪我をさせた安西の子供へ、京都土産の玩具をやった。それから帰りの海路は追手がよく四、五日で三津に着した。
 この後維新まで私どもは藩地生活をしたのである。
[#改ページ]

   六

 いよいよ藩地の松山へ帰ったが、今回は一昨年江戸から帰った時と違い、父も上首尾で、お目付という権勢のある役となっていたのであるから、借家などはせないで、既に一の邸を賜わり、それを親類の者が掃除などして待受けていた。そこへ帰着した日より住まったのである。それは松山城の北で、傘屋町という所にあった。私も今度は自分の邸というものに初めて住んだのであるから、何だか嬉しい心持がした。一体、城下で士族の邸というと、江戸に住んでいた折のお小屋などに比べれば頗る広い、まず十四畳敷も二間あり、それに準じて居間部屋台所等もカナリ広い。その他門長屋には家来なども住ませる事になっていた。尤も京都に居た頃には藩邸の御殿を仮住居としていたので、それに比すれば規模も小さく※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]末《そまつ》ではあれど、これが自分の邸だと思うと何だか嬉しい。しかしこの邸は士族屋敷の中では旧い建物で、畳等も汚くなっていたから、祖母や母はこんな汚い所へ住まねばならぬかといって眉を顰めていた。
 その内に、段々と人が来ての話に、この邸は『松前《まさき》引《び》ケ』の邸であろうという事であった。この『松前引ケ』という事について少しく説明すると、元来この松山城は、もと海岸の松前という所に在って、徳川の初年には加藤左馬助嘉明が住んでいたが、規模が小さいので、この松山へ城替えをした。その時、松前に在った士族邸を、松山へ引いて来て士族を住まわせたのであるが、その後、加藤家に代ったのが蒲生家で、蒲生家に代ったのが松平家(今の久松家)即ち私の旧藩主である。それ故松平家以後は士族屋敷も新築するものが多くなり、寛永から二百年余も経った安政となっては、松前にあった士族邸の存しているものは少なかった。稀にはそれが現存していて、私の父に賜わった邸は、右の『松前引ケ』のものでもあろうかといわれた。それだけ旧いものであった事がわかる。
 この松前からの城移しの事について、ついでながらいい添えて置く事がある。それは松前の風習として漁夫の妻たるものは多く城下その他へ魚を売りに来るが、『ごろうびつ』という桶の中に白魚という魚を入れて、それを頭上に頂いて、『白魚《しらいお》かエー、白魚かエー、』と言って売り歩く。それをオタタと呼んでいた。このごろうびつという物の起りは、加藤家で城移しをする時、士民共にその手伝いをしたが、松前の漁夫の妻は大きな桶に砂利を入れて運んで城移しの御用を勤めた。その御用櫃といったのを後に訛ってこう言ったものだと伝えられている。これは藩地でもこの地に限る風習で、かの大原女が柴を頂いているように、魚を入れた桶を頂いている姿といい、またその売声といい、一種|可笑《おかし》なものである。
 この私の邸は長く住まわないで、その年末には城山の麓の堀の内という、即ち第三の郭中へ更に邸を賜わった。これは父の実家たる菱田というが住んでいたが、この際外へ移ったので、その跡をそのまま賜わったのである。これもかなり旧い邸ではあったが、傘屋町のものに比すれば、聊か好いので、家族等も少々安んじた。この邸は南堀に沿うた土手の下で、土手の上には並松が植っているし、裏面には櫨《はぜ》の木が植っていた。紅葉する頃になると坐っていてそれを眺める事が出来た。私が漢詩の方で今も南塘と号しているのは、この南の土手の陰に住んでいたからである。
 かく藩地に住む事になったので、私も久しく京都に住んで廃していた文武の修行を再び継続せねばならぬ事となった。殊に読書は私も得意としていたのであるが、一時京都の空気に触れて、芝居や義太夫、乃至落語等に浮かれていた故、藩地へ帰り多くの朋友と出会って見ると、聊か後《おく》れている気がする。そこで再びそれに負けまいという気が起り、いよいよ漢籍の素読を勉強する事になったので、その年から翌年へかけて素読を全く了って五等を貰った。それからは助読といって先生を助け、未だ五等にならぬ輩に素読を授けてやるのである。何だか一つの位を得たような気がして、私も嬉しかった。而してかように先生の助けをする者は、同年輩の者にも数多あったが、多くは読方を忘れて先生から叱られたり、訂正されたりした。私にはそういった失態はなかった。素読を受ける生徒の方でも、なるたけよく読める助読の人を選んで出る風であったから、私はその選ばれる主な目的となっていた。これも少しく心の誇りとしていた。
 前にもいった武知先生の塾へも相変らず手習に行ったが、傍ら蒙求とか日本外史とかいうものを自ら読んでは、分らぬ所を先生に質《ただ》す事もした。読書力にかけてはこの塾でも私が威張っていた。こんな事で暫く漢学の方を修行したが、武芸の方となると相変らず拙《まず》い。それでも厭々ながら橋本の稽古場へ毎日通って、稽古を励んでいたから、藩地の武場では段式といったその階級も追々進み、最初『順逆』から『霊剣格』『剣霊』という辺りへも行った。これらの段式に応じて許さるる型がある。その型だけは、先生の注目を受けて、まず優等という方であった。けれども実地の撃剣が拙かったから、武芸の側では朋友に対しても自然侮られるので、いよいよそれを厭うようになった。
 私の今の母というは、前にもいった通り継母で、実母は私が三歳の時に没した。実母の里を交野といって、そこには私からいうと祖母と叔父とその妻子がいた。叔父は砲術に長けていたが、武人であったから日々の勤というはなくて、至って閑であった。叔父はこの頃武人のよくする猪打や魚取りをする他に貸本を借りて読んでいた。貸本屋は松山の城下にも二軒あって、蔵書はかなり豊富であった。私も叔父の許へ行けばそれを読む事が出来たので、元来読書好きの私は、この貸本を手当り次第読む事になった。けれども当時多くの人が見た写し本の諸藩のお家騒動とか仇討とかいうものは、余りに文章が拙いので、少年ながらも読む気がしない。もっぱら読んだ物は馬琴の著作であった。八犬伝などはこれまで草双紙の方で見ていたが、今度いよいよ読本《よみほん》の方で見る事が出来たので直に最終まで読み通した。その他『弓張月』『朝夷《あさいな》巡島記《しまめぐりのき》』『侠客伝』『美少年録』等を初め、五、六冊読切の馬琴物は大概読んでしまった。
 これらを読むと共に、他の作者の読本は面白くないので、京伝や種彦の物を少しばかり読んで他は打捨って置いた。作者は忘れたが『神稲俊傑水滸伝』だけは聊か物足らず思いながらも読み了《おわ》った。それから洒落本とか人情本とかいう物も見たが、これらには未だ充分の趣味を有たず、また叔父も『そんなものを見るじゃない。』といって少しく戒められる風があった。その後いくらか年を取ってからは、随分そういう物も読んで、春水は勿論、その弟子の金水あたりの物が好いと思った。そこで田舎に居ながら、江戸の粋人の生活も聊か知る事が出来た。今日鳴雪が時々昔の江戸の粋人の事などをいうも、つまりその頃読んだ書物の耳学問で、多くは聞いた風に過ぎないのである。今一つ交野で読んだものに一九の『膝栗毛』等がある。これもなかなか面白い物と思った。
 かように貸本の味が分ると共に肝心の漢学の修行を怠る風が見えたので、遂には父が怒って貸本ばかり見るのならば、交野へはやらぬといわれ、父の眼を偸《ぬす》んで行くという位になった。
 それからこれは祖母の里で、宇佐美というがあった。この宇佐美の祖母の父なる人は当時もう死んでいたが、この人は漢学者で、漢詩を多く作り、また浄瑠璃(義太夫)が好きで、自分で浄瑠璃の丸本を書いたのも二、三種あった。それほど浄瑠璃には詳しかったから、凡ての浄瑠璃本は殆ど皆宇佐美の家にあった。尤もその一半はその家から井上という家へ養子に行った者が借りて江戸まで持って行って、そして前にいった愛宕下の上屋敷の火災の時に焼いてしまったが、その一半はまだここに残っていたので、それを読む事が出来た。浄瑠璃は既に西京で味を覚えていたし、この丸本は一段物と違い、筋も充分分る所から、いよいよ興味をもって読初めた。これも今日私が浄瑠璃なり、芝居なりに親しむ原因となっている。祖母の父の自作の丸本をも私は見たいと思ったが、それも右の井上が借りて行って焼いてしまった。宇佐美家に存していたものは、祖母の甥に当る者が他家の写し本から写し取った一冊だけであったが、私はそれを見たのである。外題《げだい》を『出世奴《しゅっせのやっこ》孫子軍配《そんしのぐんばい》』といって秀吉を主人公として作ったものであった。これは今もナカナカよく出来ていたように思う。大阪ではそれを芝居にした事もあると聞いた。
 かように、私がややともすると道楽的読書に傾き、このままで行ったら当時の武士仲間で歯《よわ》いせられぬ者となるのであったが、ここに一つ真面目に漢学を勉強する機会を得る事が出来た。
 それは漢学の明教館において素読の助けの外、漢籍の意義を講明することも、追々上達して味も生ずるようになったからだ。当時諸外国との関係上、いよいよ横浜を開港場として外国人が住むことになり、幕府では仮条約を結ぶというので、攘夷党は益々奮激して横浜を襲撃せんと企つる者も出来た。私の藩はかつてより横浜の入口神奈川の警衛に任じていて、一の砲台をも築くようになっていたから、それらに対する藩の用務も頻繁になり、私の父は要路に当っていたので度々江戸へ勤番して、神奈川表の警衛にも当っていた。それ故、藩地の宅では、多く父が留守なので、父は私が文武の修行を怠る事を恐れて、親類の水野というに私の漢学の世話を頼んで行った。水野は早くから明教館に出ていて、当時七等を貰っていたのであるが、漢学は余り出来ていなかった。この水野の世話になるという事は、少年ながらも満足には思わなかったが、父の命令でもあり、また水野も誘導するので、時々その家へ行って小学の講義を聴いた。けれども往々不満な解釈を与えるので、私は内心おかしくも思った。
 しかるに或る年、前にもいった君公の御試業があるので、われわれ年輩の漢学生は奮って出講する事となった。尤もその時は君公が江戸に居られたので、家老が代理
前へ 次へ
全40ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング