となって行うのであったが、とにかく漢学生に取っては晴れの場所であった。水野が私に向って、お前ほどに漢学が出来れば是非とも御試業に出たが好いと言ったが、私は一体内気な方なので、馴れた人に対しては随分知っているだけの学問の話もするが、君公代理の前に出て、経書の講釈をするとなると、何だか怖いような気がして容易に出る気にはなれなかった。尤も当時私は既に十六歳に達していた。水野は飽くまでも勧めて止まず、その講釈の仕方までも悉皆口授してくれて、是非とも出ろという事であった。父が藩地にいたら、叱りつけても出すのであろうが、居ないのを幸にして、私はまだ躊躇していたけれども、いよいよその日となる頃には、遂に私も決心がついて出ようと思うようになった。
そこでその日は明教館の広い講堂で、代理の家老を初め役々が列座している、一面には学校の先生達、一面には明教館の寄宿生及びその他の学生が居並んでいる、その中央へ出て行って一人ずつ講義するのである。この講義をするものは一方に控えていて順々に立って行くのであるが、段々と順番が進んで、私の座席近くまで出て行って、早や私の番が来そうになったので、胸は悸々《どきどき》するし必死の場合となった。その中に名を呼ばれたので、モウ破れかぶれと中央へ進み出て、見台に対し、いよいよ講義を初めた。それは論語の仲弓為季氏宰、問政、子曰、先有司、赦小過、挙賢才、云々の章であったが、私は自宅で度々練習して行ったから、そのままサラサラとやってしまった。存外渋滞もせずに終って、座へ退いて他の処へ行くと、私の講義を聴いていた水野が、『立派に出来た、好かった。』と喜び顔をした。それから耳を聳《そばだ》てると彼方でも此方でも『助さんの講義はよく出来た、驚いた。』というような囁きが聞える。それほどの成績とは自ら知らなかったが、それでは自分もなかなか講義が出来るのだと思って、さて外の者の講義を聴くと、時々いい損なったり行詰ったりして見苦しい態を演ずるのもある。ここに至って自分の漢学が、素読のみに止まらず、進んで講義をする事においても人に負を取らないのであると思うと、それでは一番奮発して勉強しようという気が起り、今まで明教館へ行っても昼間の独看席へは出なかったものがそれからは日々出席し、漢籍も多方面に亘って読むことになった。
明教館では表講釈と称えて君公初め一般の藩士が聴聞に行く事は前にもいったが、学生はそれに出る事は出来ず、学生のためには一ヶ月に度々輪講とか会読とかがあって、それには寄宿生初め、われわれ外来の学生も出席が出来るのである。私は右の輪講会読等へはまだ憚る気がして出なかったが、五等以上の者ならば誰でも行って、館の蔵書を借覧する事の出来る独看席というが設けてあったので、そこへは日々行って勉強した。
私は以前からもそうであったが、この頃からいよいよ歴史を読む趣味が加わって歴史物を主として読んだ。宅には父が読むので『歴史綱鑑補』があったから、それは既に読んでいて、父から教えてもらった事もあった。その綱とあるのは朱子の通鑑綱目《つがんこうもく》で、鑑とあるのは司馬温公の通鑑である。この二書の要領を抜いて、批評を加えたものだから、綱鑑補の名があるのでこれは明の袁了凡《えんりょうぼん》の著である。このお馴染で通鑑と綱目の二書を知っていたから、まず後者から初める事にした。これには朱子の正篇の外に宋元及明史の綱目もあり、また前篇というもある。それに朱子が春秋に傚《なら》って書いたという事につき、『書法』『発明』というがあって、褒貶の意のある処をそれぞれ説いてあるから、いよいよ面白く思って、他の書物をもいろいろ読んだが、最もこの綱目を愛読した。温公の通鑑では三国の時魏を正統としてあるを、朱子の綱目では蜀を正統として書き改めている。そこが最も気に入った点で、従って通鑑の方に厭気がさし、数年後まで披けて見ることもせなかった。
それから、日本の歴史では『大日本史』は従来の歴史に北朝を正統としたのを、南朝が正統として書かれている。これがあたかも綱目の意義と同じであるから、これも好んで読んだ。その後に出た岩垣松苗の『国史略』は随分初心者に読まれた物であるが、私は北朝を正統としてあったから、その書に限り読む事を好まなかった。それよりは同じ位のもので、青山|延于《のぶゆき》の『皇朝史略』の方を好んだ。そこで日本の南北朝時代を、通鑑綱目のような体裁で書いた物があれば好いと思い、その結果遂に自分で書いて見ようと思い立った。尤も明教館の書物といってもさほど材料もないが、とかくそれが書いて見たいので及ぶだけ他書をも渉猟して、後醍醐天皇御即位の年より、後亀山後小松両天皇の和睦せられて、南北朝の合一するまでを書き終えた。しかしそれは誠に疎笨《そほん》[#「疎笨」はママ]極まるもので、今から考えればよくあんな物を書いたと、当年の子供心を可笑く思うばかりである。
けれどもそれが今もなお存していたら、今昔の感を叙する種にもなったろうが、ちょうどそれを書き終った頃に、父が江戸から帰って来て、留守中私がそんな事に耽っていたのを見ると機嫌が好くなくて、『まだ手前はそんな事をするよりも、充分経書を勉強せねばならぬのだ。』といって、一日大いに叱った。私は父のいう事といえばよく守ると共に、信ずる事も厚かったから、これは自分の過ちだと思い、沢山の草稿になっている手作の南北朝綱目を、庭の大竈の中へ投込んで一片の煙としてしまった。それからは父のいう如くもっぱら経書の研究をする事になった。
その頃朋友の中で最も親しかった者は、由井弁三郎、錦織左馬太郎、籾山駿三郎等で、いずれも漢籍を好んだ仲間である。これらの友人どもとは明教館で語り合うのみならず、自宅でも経書の研究会を開く事なぞがあった。私の父はさほど漢学を深くも修めていなかったが祖父なるものは徂徠派の学を究め、旁ら甲州派の軍学も印可を受るまでになっていた。それらの文武の書籍も沢山に遺っていたので、私は本箱を探してそれらの物を見たが、就中、仁斎や徂徠春台の経書の解釈に属する書を読んだ。するとこれまで朱子の註釈した経書とは大いに違い、むしろ朱子の註よりも、私の心に適う点も少なくなかったので、その後由井等と共に研究する時には、これらの古学古義派の説をも持出して、彼らを煙に巻いた事もあった。
しかし、明教館の先生の前へ出ては、そんな事は一言も吐かなかった。もし一言でも吐こうものなら、お目玉を喰うのみならず、退学を命ぜられるのである。寛政年間、桑名の楽翁が当局中に漢学は程朱の主義に従うべきものと一般に規定せられてから、私の藩などでは殊にそれを遵奉していた。明教館にもそれらの明文を掲げてあるくらいだから、もしも仁斎、徂徠の異端なる説を称うるならば、一日たりともそのままには置かれなかった。
私は十六歳の時に半元服をした。今日こそ生れた時の産髪《うぶがみ》のままで漸次《だんだん》と年を取って、それを摘み込み、分け方を当時の風にしただけで、ハイカラがっているけれど別にその上の変化はない。しかるに昔は幼者と成年とは非常の変化で、まず生れ落ちた時の産髪は直ちに剃ってしまい、後《うしろ》の方へ『じじっ毛』と言って少しばかりの髪を残して置く、それから少しすると耳の上の所へも少しの髪を貯えて、これを『やっこ』と言う。また頭の頂辺《てっぺん》へ剃り残したものを『お芥子』と称える。なお少し年が行くと前へも髪を貯えて『前髪《まえがみ》』と言う。これがまず三、四歳の頃であるが、五歳になれば男子は上下着というをして、小さな大小をも帯び、従って髪の風も違って来る。頭の周囲にも髪を垂らしてそのお芥子にも髷を結うし、また前髪もちょっと結んで後へ曲げる。更に年を取れば今まで垂していた周囲の髪を、小さく結ったままの前髪と共に髷へ結い込んで初めて若衆姿となるのである。私も八、九歳の時からそうしていた。半元服と言うのは前髪のついている額を、剃刀を以って角深く剃り込んで、それと共に今まで前髪を結っていたのを解き放すのである。それを『角《すみ》を入れる』ともいった。即ち『梅野由兵衛』の長吉の言葉に、『姉さん私もこの暮に、角《すみ》を入れら大人《おとな》役』というのがそれだ。この角を入れると共に、いよいよもう大人となるので、私の藩では遅くとも十五歳位でこの半元服を行うのであるが、私の家には祖母がいつまでも私を子供のように思い、また父は多く江戸へ旅行していたからツイツイ遅れて、十六歳で初めて角を入れたのであった。
その頃私の直《じき》の弟大之丞というは、薬丸《やくまる》という家へ養子に行っていたが、そこへ私が遊びに行った時、弟の養母が窃かに『助さんは半元服じゃが、もう元服をしても好い、何だか馬鹿げて見える。』と言ったのを、今でも記憶している。それほど私は身丈なども比較的大きかったので、半元服も大分遅れていた事が分る。
ついでだがこの薬丸にも沢山の草双紙を持っていたから、かつて私は江戸で随分見ていた草双紙を、この家で再び読むことが出来た。またこの家は家内が草双紙好きで、常に他家からも借りて読んでいたから、当時の草双紙は大概見てしまった。
それから少し話が後《あと》へ戻るが、私は十五歳の頃、馬術の方でも寒川《さんがわ》というへ入門した。一体、武士の家では弓馬剣槍といってこれだけには通せねばならぬのであれど、誰も必しも悉くを兼ることはせない。まず弓術はその頃歴々の子弟等が主として学ぶもので、われわれ身分の者は主として剣、槍、馬術を修めるのであった。私は身体も弱し、学問の方を好むところから、父が槍だけは強いて修行させず、撃剣のみを修行させたが、馬は後日役柄に依って乗らねばならぬ事があるから、是非とも学ばねばならぬといって、遂に寒川へ入門する事になったのである。しかし、これが少し年齢としては遅れてもいたし、また私の脊丈が年の割にして伸びていたから、馬術の稽古場へ出て見ると、私よりも小さい少年が達者に馬を乗りこなしている、そこへ私は初めて乗るのであるから、何だか恥かしい。殊に最初はおとなしい馬へ乗せ、先輩の人に口を引いて歩かせてもらうのが、私よりも小さい少年が独《ひとり》で馬を走らせているに較べて甚だ見苦しく感じた。その内にまず独で乗ることも出来るようになったが、或る時葛岡という馬に乗った時に、急に※[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1−92−34]《だく》を以て駈出した。私は未だ鞍が固まらぬから非常に驚いて今にも落るかと思ったが、辛《やっ》と免れた。その危なそうなのを見て、周囲の人は随分笑ったようであった。そんな事が時々あるので、撃剣の拙いので気が進まぬように、馬術の方も気が進まず、遂に修行を怠る事になった。
これで武術は何らの成績もなく経過したが、それと反対に漢学の方は漸次と味も加わり、いよいよ進歩する事になった。前にもいった由井とか錦織とか籾山とかいう朋友と経書の研究を偕《とも》にする外に、度々郊外の散歩を試みた。そこで城下の周囲にある山川または神社仏閣等は普《あまね》く歩き廻って、殆んど足跡の到らぬ所なきに至った。まず山では城下の北方にある御幸寺《みきじ》山、これは天狗が居ると言って恐れた所だったが、そんな事は意に介せず、度々山頂まで登った、山頂には大きな岩があって、その上に小さい祠が祀《まつ》ってあった。この岩には貝の殻が着いていた。けだし太古の地変で海面が凸起した遺跡であろう。尤もかかる事も奇怪の一つとし、或る季節に祭典を執行する行者が登る外は、他の者は一切足踏みせぬ事になっていた。それを迷信だといって平気で登るのが当時の漢学生等の自慢とするところであった。
太山寺《たいさんじ》という山には経の森という魔所があって、人の入らぬ所であったが、われわれはその山頂へも登って見た。尤もこの森に対した時は少し恐かった。この太山寺と共に道後の温泉近くに石手寺《いしてじ》というのがある。これらは千年以上の建物があって、また四国八十八個所の中の霊場である。なお天山というがあって、五つ
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