の小さい山があったから、詩人は五岳とも呼んでいた。これは南北朝の頃土居得能二氏が長門の探題北条英時を討取った場所だが、ここらへもよく遊んだものである。
 それから毎年正月には椿参り、柳参りという事がある。椿参りは椿の森という社で、伊予津彦の神を祀った場所で、城下からツイ三十丁ばかりの所にあった。その新年の祭日には参詣の人が少しの切れ目もなく途上に続く位であった。柳参りは城下から二里許りの山中で、祭礼当日にはなかなか人の群集したものである。そこには土地の者が大きな椀に味噌汁を盛り団子を拵えなどして、店を出していたが、ちょっと珍らしいので皆が賞翫した。その途中を少し入り込んだ所に脇が淵というがあって、昔大蛇が棲んでいたといい伝えられていた。随分樹木が茂り、岩石が聳立った下が淵なので、私等もそこへ行くと、身の毛が竪つ思いがした。
 山野を跋渉する時にはいつも弁当を携えて行ったものだが、それは黄粉をまぶした握り飯であった。服装は学校へ行くと同様の袴を穿き、大小を帯びていた。この大小というのは五歳の時、上下着をして以来、外出の時には必ず帯びたものである。尤も子供の時には玩具のような大小であるが、漸次《だんだん》と本物をさすようになる。一体武士の子は三、四歳より一刀を帯びる、それから大小を帯ぶるようにもなれば、いよいよこの一腰は離されぬものとなって、ちょっとでも門外へ踏出す事があればたとい友達と遊ぶ時にも、この一刀は帯びている。わが家へ人が訪ねて来た時にも、必ず一刀は内玄関まで提げて出るのである。他の家を訪問する時にも、帯びている大小の中、大は座敷の次の間まで持ち込んで、そこへ置き、それから座敷へ通って、先方の家人に挨拶する時でも、小の方は帯びている。よほど打|寛《くつろ》いで話でもする時でなければ、小刀は腰から離す事はない。たとえば人の年忌で法会などをする時は、主客共に上下を着て必ず一刀を帯びている。そこで迎えた法師が経を読み終えて、いよいよ食膳につくという時になると、法師が『御免なさい』といって袈裟を脱いで輪袈裟に更《か》える。そこでわれわれもそれに対して帯びていた小刀を脱して座側へ置き、箸をとるのである。それから法師が再び袈裟を着けて帰る時には、われわれも小刀を帯びて見送るのである。こんな風で聊かでも儀式張った時は、家の中においても小刀は帯びていた。また貴人でも鷹野等に出る時は、君臣共に小刀のみである。これは今でも芝居などで誰も見ている事であろう。
 一体、私ども士族の日常生活といえば、頗る簡単で質素なものであった。まず、食物は邸内にある畑で作った野菜をもって菜となし、外に一年中一度に漬けてある沢庵を用いる。魚類は出入りの魚屋から買うのであるが、それも一ヶ月に三日《さんじつ》といって、朔日十五日廿八日の祝い日に限り、膳に上ったもので、その他は『オタタ』の売りに来る白魚位を買った。食用にする醤油等も手作《てづく》りであって、麦は邸へ肥取りに来る百姓から代価として持って来る。豆は馬の飼料という名義で馬の有無にかかわらず藩から貰うことが出来る。その麦を煎《い》り、豆を煮たものへ、塩と水とを加え、大きな『こが』という桶に作り込み、その下へ口をつけて醤油を取る。糟《かす》もそのまま飯の菜に充るが、なお糠を混じて搗《つ》いて糠味噌と名付け、そのままにも喰ったが多くは味噌汁にした。これはちょっと淡泊なもので、野菜などを実に入れて食べるとなかなか甘かった。また煙草飲みはこの糠味噌汁を食べぬと脂《やに》が咽に詰るなどといい慣わしていた。衣服は、当時藩から『御倹約の仰出され』という事が度々あって、その条件には男女共に絹布を着てはならぬ、必ず木棉を着よ、また女の簪《かんざし》に金銀を用いてはならぬと言って、真鍮位を用いさせた。尤も婦女子や老人は上着は木棉でも、下着だけは絹物を着ることを許され、なお七十以上になると男女共に柔い物が着られた。その他では医者が常に絹布を纏うことを許されていた。
 かように節約主義を取らしめたのは、当時外国人が来て国内も追々殺伐な風が起り、何時戦争が初まるかも知れぬという用意でもあったが、一方では藩侯も普通の参勤交代等の外に、臨時に特別の出張をも度々せねばならぬ事に成り行いた上に、私の藩では前にもいった如く神奈川の警衛の任に当って、砲台等をも築いていたから、いよいよ藩の費用は嵩《かさ》むばかりで、従って士族等への支給も減少する事になったからである。
 この神奈川の砲台について少しお話をすると、これは万延元年に前年からの工事が落成したもので、かの有名な勝安房守が未だ麟太郎といっていた頃にそれへ頼んで設計してもらったものである。それでこの砲台は当時比較的新らしい形式に依《よっ》ていて、幕府が築いた品川沖の台場よりもこの方が実用に適っているといって、わが藩の者は自慢していた。それだけになかなか費用がかかって、八万両も支出したのであった。当時の八万両は、十五万石の松山藩に取っては巨額のもので、遂にその影響が、士族の禄も『五分渡り』あるいは『人数扶持』ということにもなった。それと同時に『出米』といって百姓にも租税以外の米を出させるし、また町人は『出銀』といって金を出させた。
 なおこれも今日の若い人には知られぬ事であろうが、一体何万石などという大名は、その凡てを収入とするのではない。その土地に出来る総米高の称である。この総米高の十分の六を百姓が取って余の四分を藩主へ収める、即ち『四公六民』であって、幕府を初め凡ての租税法となっていた。そこで十五万石ならばその十分の四、六万石がその収入となるのであった。尤もその外に運上などといって種々の取り立てをする事があった。また藩内の城普請、道普請、川普請等の土木工事も百姓を使役する事になっていた。私の藩の松山などは、米のよく出来る所であったから、それらをいずれも米に引直して取り立てていた。そこで実際は米の総出来高の十分ノ六分以上、殆んど七分位までも年貢米として取ったものである。元来この年貢米はもっぱら国家に対して御軍役その他を勤めるために取っているので、藩主一家の生活は言わばその余りを以て弁ずるはずなのである。それから藩士へ何千石何百石と言って与えるのも、その実はヤハリ呼高の四分を与えるので、禄を貰っているのは藩主の負担した御軍役等を禄高だけその下受負をする訳なのである。して見れば藩主が、国家のために多くの費用を要する事があれば、また士族どもにおいても貰っている禄の中を削減せられるは、義務としてやむをえざる事である。その他、町人百姓等は義務ではなけれど、常に政治の下に太平の恩沢を蒙っている冥加《みょうが》として、その太平を保つに必要な費用には、自分等が生計を節約しても、出銀出米の御用を勤めねばならぬのである。
 さて、こんな風で私の藩地等でも日本国内が多事になると共に、藩士の江戸へ勤番することも漸次頻繁になって来た。殊に神奈川警衛については絶えず多数の人が交代せしめられていた。右の砲台の出来上った事については、幕府から賞典があって、藩主に対しては特に少将に進められ、家格等も特別の扱いを受くる事になり、築造に関係した藩士どもには、家老以下一同へ幕府から賜わり物があった。私の父も御時服二重と銀二十枚とを頂戴した。御時服というは大きな紋の付いた綸子《りんず》の綿入で、大名等へ賜わるは三葵の紋、倍臣には唐花《からはな》という紋のついたものであった。私も父がそれを持って藩地へ帰って来た時には頗る嬉しかった。かように賜わった服は、本人が着るのみならず、願った上で、嫡子に限りその子にも着用せしむる事が出来るので、後々は私もそれが着られるから、一層嬉しかったのである。
 なおこの神奈川警衛中一つ変事があった。それは私の藩で、一人を数人で窘めることを『たかる』といって、藩士の間にも行われていたが、或る時この警衛の勤番中に新海という者が、常に同輩から憎まれていたから、遂にたかられる事になった。即ち、同列の五人ばかりが、一日新海の室へ酒樽を持込んで、強いて酒宴を開かせ、散々に飲み散らした末そこらあたりの器具を毀《こ》わしたり、棚を落したりなどして乱暴を始めた。かような場合に至っても、大概な人は多勢に不勢で敵わぬから、辛抱するのであるが、この新海というは気力もあり、かつ短気であったから遂に堪え切れず、忽ち行燈《あんどん》を吹消し、真闇にして置いて、同時に一刀の鞘を払って振廻した。そのために居合せた矢野、馬島、川端の三人は各々多少の手疵《てきず》を負った。外に竹内宇佐美というが居たが、竹内は早く帰宅し、宇佐美は残っていたが幸に疵を負わず、うまく新海を抱き止めた。その内他の人々も来て燈火を点し、総がかりで遂に荒狂う新海を縛してしまった。
 一体いずれの藩にあっても、士族の私闘という事は厳しく戒めてあったが、殊に私の藩では厳しかった。そして一人が抜刀した時に少しでも傷を負う事があれば、傷を負わせた者も、負わせられた者も、双方共に割腹せねばならぬということになっていた。そこで右の如く新海が抜刀して、三人の者に手傷を負わせたのであるから、四人ながら割腹せねばならぬことになった。新海をたかりに行った三人等は、さぞ後悔した事であったろう。尤も一時は新海を発狂という事にして無事に納めようとした者もあったが、当人の新海は飽くまで正気であると主張するし、また警衛場においての私闘は最も戒《いましめ》ねばならぬというところから、藩でも特に制裁を厳にし、遂はいずれも割腹させられる事になった。
 この時新海はさすがに立派に割腹した。即ちそれを見ていた人の話を私は聞いたが、彼は腹を一文字に切ってから、尖切を咽へ刺して前へ刎《は》ね切ろうとしたが、切れなかった。そこで自ら手を以て刃を撫でると、刃が反対になっていたので再び抜き取り刃を前にして更に突立て、咽笛を刎ね切って倒れたという事であった。この際これほどの落つきがあるのは容易な事でない。しかるに余の三人は人にたかって置きながら、中には割腹の場合に臨んで臆《おく》れを取り、人の介錯を煩わした者もあったそうである。その中の一人を介錯したのは、当日幸いに傷を免かれた宇佐美という者で、即ち前に述べた私の祖母の里方の甥である。
 そこでこの事が藩地へ聞えた時、私の家でも随分と心配した。そして関係者は割腹した者の外も厳罰を受ける法になっていたので、従って宇佐美も隠居を命ぜられ家禄も百二十石を二十石減少せられ、当時男子がなかったので他より養子をさせられて、辛《やっ》と百石で家名だけは取止めたのであった。私はこの宇佐美が帰った時その家へ行って見たが、譴責中は月代《さかやき》や髭を剃ることも出来ぬから、長く伸びた月代で髭も蓬々としていたから、何だか怖く、また衰えた風体をしていたので、気の毒に思った。一時は宇佐美も他の死んだ人々へ対して済まぬから自分も割腹すると云ったのを、他から止められたのだそうな。それから宇佐美の住んでいた邸も召上げられて、城北へ別に悪い邸を賜わる事となった。私もそこへ行って見たが、穢い上に、城山の北の麓の櫓《やぐら》の石垣下なので、その櫓には士分の罪ある者の吟味中囚えて置く牢獄等もあったからなお以て忌わしい感がした。因て私もそれ以来宇佐美へは自然と足が遠くなった。尤も浄瑠璃の丸本は、ちょうどもう見尽してしまった時であった。
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   七

 これも私の十六歳の時即ち文久二年に、藩主が津藩の藤堂家より養子を貰われ、それが初登城の際より、式部大輔と称せられた。そこで従来の例に依って、その補佐役として『側用達』という役が置かれ、私の父は当藩主の世子の頃その役を勤めた関係もあったから、今度もそれを命ぜらるる事になった。けれども政務の方にも必要なので、ヤハリ目付を本役として側用達は兼勤という事であった。この側用達は役の格式も大分上等に属するもので、即ち中奥筆頭格というに列した。従って、その嫡子たる私においても、それだけの待遇を受ける事になり、まず新年の年賀をする場合にも、今までの大
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