書院ではなくて、中書院という所へ出て、その仲間も皆歴々の嫡子のみである、藩主が江戸へ参勤したり、藩地へ帰任したりするのを送迎する際にも、歴々仲間の出る所へ出られる事になったので、何だか愉快ではあったが、私どもの家は士族としてはさほどよい家柄ではないのに、父のお庇《かげ》を以てかように私までが歴々の嫡子達と一緒になるのだから、仲間の人々からは何か違った奴が入って来たという風で余り言葉も交わしてくれず、多少そこに軽蔑の眼を以て見られるようなので、その点は不快に感ぜられた。
この頃、国内は段々と騒がしくなって来て、朝廷からは将軍|家茂《いえもち》公に是非とも上洛せよとの勅命が下り、将軍においても遂に上洛せらるる事になったので、藩の世子もその警衛として江戸から京都へ上った。そこで私の父もその供をして、世子が公武の間に立ちいろいろな勤務をせらるるために、父も一層配慮した事であった。それで聊かの風邪等も押して奔走していた結果、遂に熱病に罹って段々と重態に陥った。この事が藩地の私ども家族の者へも伝わったので、一同大いに心配して私は既に十七歳に成っていたから、単身父の看病に京都へ赴くことになった。
一体、藩士においては私用の旅行は一切ならぬ事になっていたから、同じ伊予の国内で僅か三里隔る大洲領内へさえ、一歩も踏込む事は出来なかったのである。まして遠方へ旅行するなどは、勤務している者は勿論、その子弟では家族の婦人でも一切出来ぬことであった。が、ここに取のけがある。それは神仏の参詣、即ち伊勢大神宮とか、隣国の讃岐の金比羅とかへの参詣は、特に願って往復幾日かの旅程を定め旅行を許される事があった。その他父母の病気が重態で、看護を要するという場合を限り、その父母の居る地へ旅行する事が出来るので、これは勤務している者を初め、一般家族にも許されていたのである。しかし婦人は誰もした例がないが、男子にして十五歳以上にも達していれば、是非看病に行かねばならぬ位の習慣になっていた。
そこで私もいよいよこの旅行をする事になったが、前にいった十一歳で江戸から帰り、その年から翌年へかけて京都の往来をした外には久しく旅行する事もなく、またこれらの旅は父を初め家族が同行したのであるに、今度は独行せなければならぬ。今日では藩地から京都へは一日足らずに達する事も出来ようが、その頃は船の都合が好くても四、五日、もし悪ければ十日も二十日も日数が掛るのであった。そして百里以上の海陸を経ることである故、旅慣れぬ私は、何だか心細い感じがした、尤も一僕は召連れる事になっていたので、継母の里方春日に久しく出入していた男を特に雇入れた、現に家で使っている僕はまだ若年だからであった。
こんな私事に属する旅行でも、藩用の船便がある時は、願った上でそれに乗せてもらう事も出来、それなれば同行者も多く、心丈夫なのであるが、折節その便船はなかった。父が重態であるから、何でもかでも、一刻も早く出発せねばならぬのに、大阪へ向けて公私の船を出す三津浜には、差当って大阪へ赴くべき船便は私用のものさえもなかった。そこで、大阪と讃岐《さぬき》の間を往来する金比羅参詣の船へ乗るが好いというので、それへ乗ることにしたが、その船の出る讃岐の丸亀までは三十里近くの陸を行かなければならない。しかしいよいよその陸路に向って発足する事になった。折悪く私は風邪に罹って少し熱があったが、そのために躊躇すべくもないので、宅を出た日は駕籠を雇い、雨を冒して讃岐街道の土屋という宿まで行って、そこから駕籠を返し、その夜はそこに一泊した。
ここは山中の部落で、夜は物淋しく、殊更慣れぬ宿りであるから久しく眠に就けなかった。そこで常々好きな書物か何かあれば見たいと想って宿の者に訊ねると、『こんな物がある。』といって、古本を一、二冊出してくれた。その中に三体詩の零本があったから、枕頭の灯を挑《かか》げて、『行尽江南数十程、暁風残月入華清』などという詩を繰返し繰返し読んでいる中につい夢地に入った。今でも三体詩中の詩を読む度に土屋の宿の寂寞を想起するのである。
その翌日は、一僕と共に私も草鞋掛で歩いて、やがて城下から十里ばかり隔った大頭宿に達した。そこから先はいよいよ他藩即ち小松領に入るので、一層心細い感を抱いた。行き行いて関の峠というへ達した。私は風邪を押していたので段々と疲労を覚えて困っていると、この日路傍に馬方がいて、『帰り馬で安いから乗《のっ》て下さい。』と勧めた。鞍を置いた馬には多少乗った事もあるが、荷馬に乗るは初てなので躊躇したが、僕も共に勧めるので遂にそれに乗った。ところが意外にも乗心地が好く、初めて駄馬に乗る味を知ったので、翌日から度々それを雇うて乗った。
四日目の宿は和田浜といって、最早讃州へ入ったのであった。例の如く夕飯等も済んで寝ていると、俄に或る一方で騒がしい声が起り、また苦痛に呻《うめ》く声も聞えて来た。寝られぬままに耳を欹《そばだて》ると、何でも道中によくある胡麻の蠅を働く男を捉えてそれを拷問するのであると判った。僕をして宿の者に訊ねさせると、その宿は今日でいう刑事警察権をも持っていたので、お客様には相済まぬが、役目であるからこんなゴタゴタした事もお聞せ申すのだと答えた。その内に拷問はまた明日にするといって騒ぎは終ったが、一方庭を隔てて止宿している男女が数人あって、その中の一人の女が病気に罹ったので、『久しくここに逗留しているが何時なおって故郷に帰られるであろうか、旅でこんな事になって悲しい悲しい。』と繰返して喞《かこ》つ傍から、同行の者が頻りにそれを慰めている。前には拷問の呻きを聞き、今またこの悲しい声を耳にして、熟々《つらつら》旅寝のいぶせき事も知ったし、その上自分も父が旅に病んでいて、それがためにこういう淋しい旅行をするのかと思うといよいよ夢も結ばれぬのであった。
その翌日、起きて見ると、宿の伜が田舎角力仲間ででもあるらしい大きな肥満した身体でいながら、神棚に向って拍手して一心に礼拝していた。なんでもそれが前夜胡麻の蠅を拷問した頭《かしら》であったらしい。かかる荒くれ者でも神に対してする神妙な態度を見れば、いぶせき宿もまた頼もしいような感がした。この和田浜の宿では唐饅頭という飴を餡にした下等な菓子が名物であった。菓子好の私は前夜も朝もそれを沢山喰べた。
その翌日はまだ日の高い内に丸亀港へ着いた。この港はもっぱら金比羅詣の船が着く処で、旅人の往来も頻繁だから船問屋兼業の宿屋も数々あった。私もある宿屋に投じ、暫く休息した。これから乗る船はその頃渡海船といって、金比羅参詣の客その他商人等を乗せるが、またわれわれ如き両刀を帯した者もそれに交って乗っていた。もうここへ来ると少しも侍の権威はない。他の平民どもと打混じて船中に雑居するのである。
この渡船の例として、たとえば丸亀から大阪へいくら、広島または下ノ関へいくらと定め、その航路が順風であって僅かの日数で達しても、またはいかほど日数が掛っても、最初定めた船賃に増減はせない。そしてその間三度の食事も一切船の賄いであった。
私は既に船宿で食事をして乗ったが、夜に入っては船の蒲団を借りて寝た。僕も隣へ寝た。その周囲には知らぬ旅人が沢山寝ていた。多くは無作法な者ばかりであったから、変な感がして容易に眠る事が出来ぬ、その中に碇《いかり》を上げ帆を捲いて船を出したが、進むに従って横波が船の腹をドサンドサンと打って動揺して、それが段々|甚《ひど》くなった。船に弱い私は直ぐ胸が悪くなり、遂には嘔気を催すにも到った。それを僕が親切に介抱してくれた。こんな風なのが何でも半夜さばかり掛った末に或る港へ着船した。
夜が明けて聞いて見ると、それは備前の国の田ノ口という港であった。備前の国の陸地ではこの田ノ口が最も海中に突出していたから、讃岐よりの航路が短いので、多くの船はここへ着いたものである。
そこで再び船が出るかと思うと、一向に出る様子がない。最早大分風も歇《や》み掛っているようであるに、船頭どもは出船の用意をせないのみか、その主なる者は港へ上って小料理屋で酒を飲み、安芸者でも上げたと見えて、船へ帰ってから惚気《のろけ》話などするのが聞える。客はいずれも退窟して、『いつ出るのか。』と問うと、船頭は『まだこの風向きでは船は出せぬ。』と殆どあつかむような口気で答える。不平だけれども、自分ではどうも出来ぬから拠所なく黙ってしまう。その中に一人の客は『もう船で行くのは止めて陸にしよう。こう長く待っていては用事が差支える。』といって、支度をして上陸した。すると我も我もと三人五人続いて上陸する。私もかく滞船していては京都へ上るのも遅れる。いっその事上陸して山陽を行こうと思い付いた。一つは前夜の横波で苦んだ事にも懲々《こりごり》していたので、初は僕が同意せなかったにもかかわらず、遂に命令的に上陸の支度をさせた。
この田ノ口港の近傍に由賀山という寺があったが、これはカナリ信仰の多い関西の霊地で、やはり金比羅等に準じて、遠方からも参詣者が絶えなかった。従って宿屋等も相当に賑わっている。私もこの由賀山へ参詣して、いよいよ岡山城下へ向けて陸地の旅を初める事となった。
これは後に聞いた話であるが、かくの如く私どもその他の船客が上陸したのは、かねてより設けられた罠《わな》に掛ったので、前にもいう通り船賃は請負であるから、もしも航路の日数が多くなれば、食料の点で損をする。そこでなるべく乗客は中途で下す方が都合が好い。中途で下りるのは自己の勝手だから、定めの船賃は返さない。かような関係から最初発航した港から次の港へ着くまでは、聊かの風波があればこれに乗じてなるべく船の動揺を烈しくし、次の港へ着いてはこの暴風ではいつ出船するか分らぬという風を見せるために、港の料理屋で酒を飲み女を買うなどという事もして、つとめて気長き態度を装い、乗客をして散々風波で苦んだ末この船にいつまで居ることかと懸念を生ずる所から、遂には船賃を無駄にしても上陸するという心を起さしめるのである。而してそれらの人を吐出すと同時に船はその日にも出帆するのであった。
岡山城下は長い町で、ちょうど五月であったから、両側の軒先に幟を立てていた。いずれも見上げるような大きな物で、中には糸を網のように編んでそれへ鯉とか人物とかを貼付けたのもあった。これは江戸にも藩地にも例のない珍らしいものであった。なおそれより進んで姫路の城下、明石の城下もやはり長い町であった。一体、街道筋に当る城下の町は通行の旅客に依て利益を得ようとするので多く一筋町になっている。また郷村へ行ってわざわざ蜿《うね》ったように道の附いている街道もある。これは附近の村をいずれも旅客の通る道筋にしたいというので、こんな道の付けようをしたのであるが、旅客においては実に迷惑千万な話である。こういう事は前にもいった川止などと共に、街道筋の藩々の為すがままに任せてあったから、いかなる大名といえどもその歩かされるままの道を歩かねばならぬのであった。
私は何でも四日目に兵庫港へ着いた。この間三泊したのだが、二つの宿は忘れて、加古川という宿だけを覚えている。その宿に泊っていると、按摩がやって来て、『御用はありませぬか。』という。私も風邪を押していたので身体がだらしいから一つ按摩をさせて見ようという気になって、させて見るとなかなか心地好いものであった。これが私の按摩の味を知った最初で、それからは旅行をすれば必ず按摩を呼ぶことにしている。今も按摩に対すればこの加古川の宿の事が連想されるのである。今一つ、忠臣蔵の桃井の家老でお馴染の名前だから記憶しているのである。
途中|斑鳩《いかるが》の駅というを過ぎた時、聖徳太子の由緒の寺があって、参りはせなかったが、かつて見た書物に、『斑鳩やとみの小川の絶えばこそ我が大君の御名は忘れじ』と歌を詠した乞丐《きっかい》が、達磨の化身であったという話があるので、ちょっと私の注意を引いた。また阿弥陀の駅で立派な建石に、『前備中守護児島範長公碑』と記し
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