てあって、かの備後三郎|高徳《たかのり》の父であるから、さてはここらで戦死したのであったかなどと思いつつ見て過ぎた。
明石の町へ来ては、ちょっと傍道へ入ると人丸の社があるのだが、参詣もせなかった。このあたりから私は次第に熱気が発して来て、もう歩くことなどは苦しいから、城下の出放れの立場で、例の荷馬を雇うて乗ることにした。この馬へ乗る時片足に非常な疼痛を覚えたので、そのまま床几の上へ転がって暫く苦悶していた。僕や他の人々は馬が噛んだのかと思って心配したがそうではなかった。足を高く揚げたのが少しく無理であったと見えて、かくの如き疼痛を発したのである。これもその時が初まりで今以て時々少しく足を無理に捻るとほぼ二、三分の間非常な痛みを発する。折々にその話をして見るが他の人にはそんな事があるというを聞かぬ。転筋などといって苦しむ事もあるがそれとも違う。けだし筋肉から神経に与える痛みであろうかとも思われる、して見れば甚だしい神経痛を瞬間だけ起すものといってもよかろう。これも明石の城下外れに遺した一つの追憶である。
有名な須磨明石の浜辺も、馬の上で熱に浮かされながら、夢うつつの間に通過した。折々前から来る人に馬から落ちそうだと注意された事もあった。さような中にも眼を引いたのは浜辺に沿うて小さな白帆が馳せ行く、それがあたかも陸を行くわれわれと伴うが如く見えたのであった。
遂に兵庫港の宿に着いた。これからは大阪へ度々船が出るから、海路を取ろうというのである。段々熱が出るので暫く蒲団を着て休んでいた。その中に船が出るというから乗ったが、この度は天気も好く風もなかったが、それだけ屋根も何もない船の上に夏の日に照らされて一層頭痛を引起したことであった。
天保山の入口から安治川を遡って中の島の藩邸へ着いた時はもう日が暮れていた。早速病を押して袴を着け、詰合の目付へ届け出た。私の父は目付でも上席で、多少権勢もあったから、その下にいる人々も私に向っては特によく労ってくれた。その時初めて会った人の中に藤野立馬というがあった。これは漢学者で近頃目付となった者であった。以前は私の藩では漢学者は余り用いられず、武芸者の方が重んぜられたが、世間が多事になり藩と藩との間にも多少外交が喧しくなったので初めて学者の必要を感じ、元は学校の教官位に止まった者が漸次政治向きの役々にも採用せらるるに至った。藤野は最初に抜擢せられた一人であった。後年この人が私に向って話したりまた書いたものを見ると、やはり私の父などが多少漢学の智識があったのでこれらの学者を登用した主唱者らしく思われる。藤野は後に藩の権大参事兼公議人となり、大学本校少博士ともなり、また修史館が出来た時にはその編輯官ともなった。号を海南といい、最初幕府の昌平塾の塾頭もして世間の人にも知られていた。文章が得意であったが実務に当る見識や才能も具えていたようである。
大阪へ着いたその晩、藩邸の人々の世話になって、夜船に乗り、翌朝伏見へ着いて或る宿屋に小憩した。前にもいった通り、松山を立って以来感冒に罹っていたが、明石を過ぐる頃から大分発熱して、この伏見に着いた時にはもう体も非常に衰弱していた。折から雨天でもあるし、とても歩行は出来ぬので、駕を雇うて京に入ることにした。この駕は、父の顔もあるから切棒にして人足も三人附けねばならぬので、駕賃も従って高くなる。それで供の僕が心配して異論を唱えるのを私はどうしても駕に乗ると命令した。かように病気をしている私と、僕とがそれらの話をしているのを、宿屋の主婦が聞いたので、頗る同情して私を慰めてくれた。
かくて私は雨を侵して三里の道を駕に乗って京都に入ったが、その頃世子の旅館は、高倉の藩邸は手狭なので、別に寺町の何とかいう寺を借り、それを東海道などの旅行の時の如く本陣と呼んでいた。そして随行の人々は別に近所の寺院を宿にしてこの本陣へ日々交代して勤めていた。因って父もこの随行者のいるある寺にいたので、私はそこへ到着したのであった。しかしその前に世子は既に江戸に行かれたので、右の寺に残っている者は父以下少数の人であった。私は着くや否父の病床に駈込んだが、その時熱をおしていた上に雨の冷気に侵されて、体が麻痺したようになり、ろくろく口も利けぬようになっていた。でも何とか少しばかり見舞を言う。父も私を見てさすがに喜んで、色々温言を与えてくれた。父の病気は幸にもう快方に向い、予後を注意するという位になっていたので、わざわざ看病に行ったけれども、私は何の用もなくなったが、それだけ安心もしたのである。
父は御目附の外御側御用達を兼務していたから、この度の如く世子が京都へ行かれて朝廷や幕府の間に多少の斡旋奔走せらるる際は、別して補佐の責任も重かったため、病気を押した結果、遂に大患にもなったのであるから、世子その他の人々もこの事については頗る心配されて、療養上の保護も厚く受けていた。従って世子が京都を引上げられる際も、特に御側医師西崎松柏という者を残してもっぱら父の療養をさせられた。また父の弟の浅井半之助というが世子の小姓(他でいう近習)をしていたのを、特に随行を免ぜられて父の看護をすることを許された。なお父が目付であったため、目付手附の卒で伊東与之右衛門というものを、その筋から病気の用弁に残されていた。この外父が身分相応の従僕も三人ばかりいたので、この寺院における父の一行だけでもなかなか多人数であった。
私は着くや否父の並びに床をとってもらい、打臥したが、右の西崎医の診察では瘧《おこり》だというのでその手当をした。数日間は随分熱も高く出て苦しかった。そこで或る京家の人からは禁裏の膳のお下りだから、これを頂くと落ちるといって、少しばかりの御膳を貰ってたべたことなどもあったが、なかなか落ちない。私はいつもそうであるが、熱が出るときまったように頭痛がするので、この度もそれが強く起ったが、ある時多量の鼻血が止めるにも困るほど出て、それが納まると、頭痛も共に止った。その頃は西洋の薬も多少は用いられていたので、西崎医は申すまでもなく漢方家であったにもかかわらず、幾らかその用法を知っていて、機那塩即ちキニーネを服せしめた。苦《に》がくて飲みにくいから、あの粉を飯粒に交えて幾個かの丸薬にして、それを三回分飲んだ。するとその翌日から発熱をしなかった。瘧は落ちたのである。しかしまだ衰弱しているので、父の方も十分静養せねばならぬところから、更に数日そのまま滞京していた。
浅井の叔父は、その頃大分酒を飲み、父の枕頭でもちびりちびりと盃をあげるほどの、ちょっと変った気分であるし、父の病も快方に向って安心してもいたろうから、酔うとよく詩吟をした。それは山陽の天草洋や文天祥の正気歌などで、就中尤もよく吟じたのは李白の『両人対酌山花開、一杯一杯復一杯、我酔欲眠卿且去、明朝有意抱琴来。』を繰返し繰返し吟じたのは、今も私の耳に残っている。父もやかましいと思って困ったようではあったが、止めることもしなかった。この叔父は多少詩も作りまた漢学の素養もあったので、親子兄弟三人で随分そんな話もしたのであった。
藩の公用も父が少し良くなったために、京都に残っている目付や藩邸の留守居などが時々来て相談することもあって、私もわからぬながらそれを病床で傍聴したこともあった。その内父もいよいよ快癒して帰藩の旅をしてもよいということになり、私も勿論快復したので、そこでかつて京都留守居を引上る時に用いた高瀬舟をまた雇切って、伏見へ下り、伏見からは例の三十石の昼舟で大阪へ下ったのであった。西崎医は伏見まで送って来た。浅井の叔父はやはり船も同行したように記憶している。
大阪からの船は、折から藩の大きな荷船の来ているのが無かったので、別に早船を藩から雇ってそれに乗せられた。この船にも小さな屋根があって、父その他の数人もその下に寝ることは出来た。一体小形で、帆も上げるが主としては櫓を用いた。この櫓は随分早いものであった。これは大阪で雇入れたので、船頭もやはりその船に属した者ばかりである。藩の船手は一人だけ乗組んでいた。前にもいった如く藩の船なら船手も数人いて、藩地の浦々で徴発するかこ[#「かこ」に傍点]に向っては頗る威張ったものであるが、この商船となると自分一人であるので、隅に小さくなっていて何事も差図などはせない、全くお客様という顔をしていたのは、誰もひそかに笑った。
この航路は天気もよく、存外早かったが、ある港で潮待をしていた時、近所に碇泊している或る船の中で味噌汁に菜葉を入れたのを喰っていたのが、私は何だか羨ましくなり直様《すぐさま》家来に命じ同じ味噌汁を作らせた。こんな船でもやはり米その他菜の材料などは父の手元で積込で三度の食事を弁ずるのであった。尤も大阪で藩邸の者がいわずともそれぞれ実際の支弁はしたものである。
三津浜へ着くと、親族知己が出迎えに出て、例の如く行列を立て親子駕をならべて松山の邸へ戻った。門には僕が迎え内玄関には二人の祖母や、継母、弟などが待っていて、皆快復して帰ったことを喜び迎えた。就中継母は涙もろい方であったから、父や私が病後の衰弱した様を見ると、悲しさや嬉しさで、私を撫でながら涙を落したことを覚えている。
[#改ページ]
八
私はもう十七歳になっていたけれど、父の不在のために元服していなかったから、体が全く快復すると共に元服をした。それには昔は烏帽子親ともいった如く、最初の剃刀をあてるものは特に目上の人を選ぶ例であったから、父の実父たる菱田の祖父がそれをしてくれた。同時に助之進という通称の外に師克という実名をつけた。これはその頃名乗といって、通称の外に元服後はなくてはならぬものであった。この方は実母の里交野から実母の姉が中島というへ嫁していた、その夫の隼太というのが明教館の助教で、私も時々教えを受けていた関係もあるから、つけてくれたのである。師克とは、父の実名が同人で易の同人卦からとったので、同じ卦の大師克相遇という爻の詞を採ったということであった。
元服をすると、最初若い者の仲間に遇えば『お似合お似合』といって額を打たれるのが習慣になっていたが、私は明教館でもまず学問の方では或る造詣をしていたし、撃剣場などでも、父の役目に封して多少憚られていたから、幸に額の痛いほど打たれたことはなかった。しかし自分には変った顔となったのが恥かしかった。この際衣服の袖の八ツ口を全く止めて総てが大人振って見えるようになるのだ。
元服と同時に撃剣の師匠橋本先生から切組格という段式を貰った。かように大人中間に入ったので明教館の漢学はいよいよ励まねばならず、また由井、錦織、籾山などの学事の交際や、郊外散歩なども相変らずしていた。しかるに私は経書や歴史などの研究は誰よりも優れていたにかかわらず、詩を作ることは全然知らなかった。かつて武知先生の塾へ手習に行っていた時、『ちと詩も作ったらよかろう、それには幼学便覧などを見るがよい。』といわれたので、その本を父に買ってもらったが、どうも面白くないので、そのままになっていたのである。しかるに他の朋友は少しは詩も出来るから、詩の話になれば、私は沈黙しなければならぬのであった。それが口惜しいので、ある日由井と二人で城西江戸山あたりを散歩した時、由井に詩はどうして作るかと問うて、そこで絶句とか律詩とか、平仄押韻などの事を知り、それからは時々自分でも作って見た。尤も多くの初学者はまず幼学便覧などにある二字三字の熟語を上下にはめて、それで五言七言の詩を作るのであるが、私はそんな既成の語を綴り合しては自分の手柄にならぬと思い、何か一つ自分のいって見たいと思う事を、字の平仄を調べた上で、自分限りの修辞を以て作ることにした。勿論漢籍は随分読んでいたので、漢語の使用はかなり出来るけれども、詩の修辞は別段なものであるから、他の詩に熟達した人から見れば、字数だけは五言や七言にはなっていても、全く詩とはならなかったのである。でも自分だけは自惚《うぬぼれ》て満足していた。
当時は世間の志士などが
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