多く慷慨悲憤の心を述べるために詩を作った。彼の東湖の正気歌とか獄中作なども伝えられていたので、私も徒に花鳥風月を詠ずる時勢に非ずと思い、何か理窟ぽい議論めいた事のみを述べて、いよいよ以て変な詩ばかりを作り、而して朋友の作を軽んじ、議論をすれば食ってかかるから、詩においては殆ど敬遠主義をとられていた位であった。
この年、明教館にお選みを以て寄宿仰付らるという御沙汰の下に寄宿する者が出来た。従来も同館に寄宿生はあったがそれは希望者が先生の許可を受けて寄宿したものである。しかるに今回のは全く藩命に依って寄宿するので、それだけ名誉でもあるから、十分修業せねばならぬことになるのである。かような事の起った理由は、この頃はもう日本国中が大分騒がしくなって、朝廷幕府各藩の間に互に意見を立て議論を闘わすようなことになったので、自然学問ある人物の必要を来し、従てこれを養成するためであったのである。けれどもこれらの子弟は多く家柄もよくて、年頃にもなれば君公の小姓を勤めるような門閥にもなっていたから、長く漢学ばかりさせておいては、本人やその親も迷惑であるので、他から言草の這入ったのか、段々と抜擢されて小姓になった。そこで仰付られの寄宿生は小姓の下地だという世間の噂もあった。
私もこの年の秋の末であった。他の両三名と共にお選みを以て寄宿を仰付られた。『助さんもいよいよ御小姓の下地になった。』などとひやかされたが、しかし私は多少得意であった。
その頃の寄宿舎は講堂その他の学問所に続いて建てられて、新寮旧寮といっていた。新寮は藩命の寄宿生が出来たために新設されたのである。舎の数は旧寮五室、新寮三室、各々寮長があった。これは二人ながら七等以上を貰っていて、もう本人は一通り修業が出来ているけれども、後生の指導のため特に寄宿していたものである。この八つの各室は旧寮の方は宮、商、角、徴、羽、新寮の方は智、仁、勇、と称していた。私の入ったのは仁寮で、同室が他に二人あった。一人は寄宿生として先輩であったが、私は以前より漢学の方は自信があり、先生達にも認められていたので、先輩は勿論、先生達さえ別に恐いとは思わなかった。尤も大原武右衛門、号を観山《かんざん》という、即ち正岡子規の母の実父に当る人は、経書も歴史も詩文も総ての漢学に熟達し、人物も勝れていたので、この人ばかりは恐れていた。そんなことであるから私も寄宿生となって以来はいよいよ得意となり、また周囲からも多少は推重せられていたようである。そしてこれまでの独看席は官の書籍を借りて独看するのみであったが、寄宿生となると当然輪講や会読にも列し、朝の素読席では生徒へ素読を授けねばならぬので私もそれらに従事した。輪講や会読席へ出て見ると、やはり読書力のない者が多かった。輪講は或る経書について籤《くじ》を引いて中《あた》った二、三人が順番に講義をし、終ると一同の質問に対し答弁する。その質問や答弁が間違っていると、控えている先生が正してくれる。あるいは叱りつける。会読の方も籤を引いて順番にするが、これは単に本文を一段ずつ読んで行って、そして他の者と共に意義の解釈については討論するばかり、これも先生に最後の教えを受くることは勿論だ。生徒は予め種々な註釈書を見て一通り意義を調べて置いて出席したものである。そして初心者は何々示蒙などいう仮名交りの解釈と首引して調べたものである。が私は既に自宅でも朋友同志で輪講会読もして聊か牛耳を執っていたのであるから、この寄宿舎の方でも最もよくしゃべった、先生も私の説には多く首肯してくれた。だから大抵の者はこの籤の中るのを非常に恐れていたが、私はかえって希望していたものである。今でも私は俳句を作るよりもその議論をするのが好きであるが、既にこの頃より議論ほど面白くまた得意なものはなかったのである。
この外になお文会と詩会とがあった。これは月に各一回、これにも先生達数人が臨席して各生徒の作った詩文を批評した。そこで私もいよいよ詩を作らねばならぬ事になった。前述の如く私の詩は理窟ぽい事のみで、花鳥風月を詠むことが出来ないのであるから、この詩会には少々降参したが、当時の寄宿生は詩などもたいして出来なかったので、私の詩もそれに比してはさほど劣ったものでなかった。文会の方は到底まだ論文とか紀行文とかいうほどのものを作る生徒がないので、まず紀事といって、ある仮名書の文章一段を漢文に翻釈させるばかりであった。これは私も読書力があったから、さほどむずかしいとも思わず、紀事の成績はいつも優等で先生から賞讃されていた。詩の方とてもその頃の先生達は今日の俳句でいえば多く月並で、当時流行の尊王攘夷とか慷慨悲憤などを述べれば、それでよいと思っていた。なおこの淵源に遡れば、当時の漢学の程朱主義は、詩文を卑み経義を尊ぶことに傾いていたから、詩作の上にも、あまり詩人めいた詩らしい詩を取らなかったのである。この訳から私の詩も存外首尾が悪くはなかった。その頃父は江戸や京都あたりに旅行することが多いので、私の詩を作り始めたと聞き、山陽詩鈔を送ってくれた。それを開いてみると、歴史を種に尊王主義の慷慨を詠ったものが多いので、あたかも理窟ぽい私の頭と一致して、詩は山陽心酔者となり、益々慷慨の詩を作った。尤も山陽だけの詩の修辞が出来れば上々だが、私のは随分骨っぽくてまず東湖あたりの口真似に過ぎなかった。
私の恐れた大原観山先生は、自分だけは申分ない詩を作っていられたにかかわらず、後生を率いるにはやり慷慨的に傾いて、私の詩にも度々よいお点や批評を与えられた。そこで私も信ずる所の先生の下にいよいよこの方面を発揮することになった。だからその以来私の四十六歳で常磐会寄宿舎の監督として、寄宿生正岡子規に引きこまれて俳句を初めるまでの間、詩といえばいつもそんなもののみを作っていた。従って長い間に二千や三千の詩は出来たと思うが、今残っているものを見ると、殆ど全部月並であることに自らも驚くのである。
寄宿舎には従来年末に忘年会をする例になっていて、常には昼する詩会を夜にして、これを開いた。そこで常の詩文会では出席生徒が順番にその宅から持寄りにする豆煎りを食うのみであるが、忘年会の詩会では、いり豆の外に獣肉の汁をこしらえて飯を食うことになっていた。これらの費用も、生徒が少々ずつ醵出して、幹事が城下の魚の棚の肉店へ買いに行った。尤も猪肉は高いから鹿肉にして、葱《ねぎ》一束位と共に寄宿舎へ持ちかえって、賄方の鍋釜を借りて煮焚きをした、そんなことで詩会席にいるよりも食事の調理に奔走する者が多いから、先生達もこの日に限り早く帰ってしまう。するといよいよ若い者の世界で、一同大元気となり、互に争い合って肉を食い飯を食った。尤も酒は禁ぜられていたけれどなかなか気焔はあがったものである。なお余興として枕探しなどいうものもあった。それは寄宿舎とはよほど隔っている講堂、即ち表講釈も行われて君公も臨席せらるる広い堂であるが、そこへ或る一人が深更廊下を通って、予《か》ねて他の者が隠してある枕を探して持返るのである。これは随分気おくれのするもので、輪講の籤以上中らぬことを希望していた。それに平生憎まれたり軽蔑されたりしている者は、それに乗じて、暗中で悪戯におどかされたり、ひどい目に合わされたりした。また蒲団蒸しといって、或る一人を蒲団に包んで圧伏せ、息も断え断えにさせた事もあった。しかし私は自分の学力や父の役目の関係から、別段人にいじめられたこともなく、かえって荒武者連中にも多少は憚られて、『助さんが居る』とか、『助さんに聞える』とかいって、何ら腕力もなく武芸も劣等なものながら、どうかこうか好い境遇を得ていたのである。
ついでにいうが、右の如く市中へ肉など買いに行くという事は、婢僕を使っている士分の家では主人は勿論家族でも多くはせなかった。もし買う事があれば、僕を遣わすか、あるいは宅に呼び寄せて買うので、呉服小間物類は別として、そうしていた。そこで私は父の役目もあるから一層この束縛に就いていたのだが、或る年忘年会の幹事に当ったので、他の幹事に率いられて肉を買いに行った。夜分とはいえ少し極り悪く感じていると、他の者が『助さんはさぞお困りであろう。』といって労わりながらも冷やかしたことがあった。
この寄宿舎は食事だけは藩命の者と否《あ》らざる者とを問わず、藩より支給せられて、多くは賄方が請負で仕出をしていたが、あるいは小使をして拵えさせた時もあった。まず朝は漬物、昼は煮菜と漬物というあたりであった。そして毎日その頃の七ツ時から六ツ時までは帰省といって、宅の父兄の機嫌を訪ねに戻る例であったから、夕飯だけは各自宅で食った。その出入は当番の先生に一々報告した。また夜遅くなるとか、宅に止宿するとかいう時は、理由を述べて先生の承認を得たのである。かく二度の食事は寄宿舎でするのであるが、若い連中のこととて、菜は少量で不足する。そこで武芸の稽古場へ行くとか自宅に帰っている者とかがあると、これはもう余ったのだと、他人の膳に箸をつけて二人分をたべる。あるいは二人でそれを分けてたべる。そして舌打している所へその本人が帰って来て、大いに面目を失うことも随分あった。また飯も一つの小さい飯櫃で銘々に与えられていたので、大食の者は足らないから、小食の者のを貰って食う。何某は小食だからいつも残飯があるとて大食の者にねらわれた。私などもそのねらわれた一人で、恩恵を施していたものである。
かくてその年も明《あけ》たが、彼の京都で長州兵が禁門に発砲したことがあったり、その前後も藩主や世子は京都江戸へ奔走されていたので、兵員も多人数を要することになり、従来の士分以上では不足を生じた。そこで、特に文武の芸勝れた者は、嫡子|及《および》二男三男等も勤仕を命ぜられることになり、武芸の段式で中段以上、学問で六等以上の者は御雇になるということが始まった。これは給料としては一年銀六枚を下さるのみであるけれども、いずれも名誉として勤めた。
一体戸主以外に嫡子は番入という事があって、幾年目かに廿五歳に達している者はこの番入を命ぜられた。而して親同様に一人前の士分となって、親が死ぬるか隠居をする――六十歳になると隠居するを許された。――までは、別に三人扶持を支給された。またこの外に不時番入といって、不時に番入を命ぜられたが、これは武芸の中段以上、学問の六等以上を、三つ得ている者に限られ、やはり嫡子のみであった。而して二、三男となれば、かような勤仕をする機会がないのみか、一生妻を娶る事も出来なかった。この事は大名旗本及諸藩士も同様であったから、これらの二、三男を冷めし喰いと呼ばれていた。しかるに今度この冷めし喰いが、妻帯とまでは行かずとも、勤仕を命ぜらるる事が、我藩に始まったので、二、三男の喜びは如何ばかりであったろうか。尤も従来二、三男といえども、他家の子のない処へは養子に行く事は出来たから、一生この冷めし喰いでいる者は割合に少なかったのではあった。
しかるに私は学問では優等生ではあったけれど、この頃の風として同年輩の者は皆或る年数を経た上一様に等を進められたから、まだ六等を貰わなかった。それに武芸の方は劣等生であったので、元服と共に切組格となり、次いで切組とはなったがまだとても中段にはなれない。しかし他の同年輩の朋友は多く武芸の方では中段であるため、段々とお雇になって行く。取残された私は人に対しても恥かしくて気が気でない。この上は撃剣の方で中段を得んものと、この年の下半期には寄宿生でいながら日々橋本の稽古場へ通って人一倍励んでみた。が、半年位の勉強だから、いつも七月と十二月の段式の昇級をさせる時が来ても、私は依然として切組に止まった。元々嫌いな武芸はもうそれだけですっかり気がくじけてその後は勉強をせなくなった。
その頃藩でもいよいよ戦備をせねばならぬことになったので、軍学をも奨励して、従来あった源家古法の野沢家と、甲州流の某家とに意を嘱して弟子を奨励せしめた。尤もこんな軍法では実用にはならぬのだけれども、藩の
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