軍隊さえ甲冑や槍や火縄筒を用いていたのであるから、この奨励の下に両家へも入門する者が増加した。私も軍法なら[#「なら」は底本では「ならぬ」]撃剣とは違い、漢学の応用も出来ようから、一つこれで中段を得たいと思い、既に学友の籾山は入門していたから、それにも問合せなお由井を勧めて二人で野沢へ入門した。出てみると、その先輩達が軍法に属する書物を一応読んで聞かせて、それを私どもにも読ませる。総てが仮名文で、漢籍を読む力では実にばかばかしいものであったが中段が得たいばかりに、腹の中では笑いながらもその教えを受けた。またある時は出陣式とか鎧の着初式とかいうのを古式に依って行い、門人の中の或る子供が殿様や若殿様となり、その他も種々なる役人となって、各々小具足を着けて真似事などをした。場所は藩にも奨励の際とて三の丸大書院を明渡してそこでさせた。私も小具足でその席に列し、命令通りの服役をしたことである。けれども漢学の力を応用するような機会もなく、中段は一向に貰えない。
 もうその頃は同年輩の者は得意で御雇を勤め、あるいは京阪に旅行するものもあった。それに引替え私は寄宿舎の中にくすぶっていて、その中でこそ気焔も吐くが、外に出ては、嫡子でいながらひやめし喰いにも追従せられぬので、自分のみすぼらしさをつくづくと感じた。それに私は一両年前より吃《ども》る癖がつき、尤も学校で講義をする時は得意で気の伸びているがためか、別に差支《さしつかえ》もなかったが、人の家へ行ったり、人と遇って話をしたりする時には、吃って口が利けない。人は可笑しがる、私は益々吃る。それが御雇にもなれぬ身だというひがみ心と共に一層募って、父や一家の人々にも大いに心配させた。
 私の如き藩命に依る寄宿生は、多く小姓に出る閥があって、それぞれ出て行ったにかかわらず、私のみは既に足掛け三年もそのままでいる。私の家は曾祖父以来小姓に出る閥でもあるし、父は現在枢要にもいたのであるから、疾《と》くに小姓位にはなるべきであったが、父は多くの人と異っていて、私を小姓にするのを名誉とせず、それよりもせっかく寄宿生となったからは十分漢学の修養をさせたいと思っていた、故に他より私を小姓にといっても拒絶していたのである。これは祖母があまり私の出身が遅いため心配して人に話した時、その人が告げたのである。しかし、当時の世子はまだ若くもあり、幕命により奔走もしていられたが、一方には文武の修業をせられつつあった。そこでお相手として文武の力を持った近習を要するので、そんなことから終に私も小姓に抜擢されるに至った。父もその時は争わなかったと思われる。そこで祖母はじめ一家の喜びはもとより、私も久々で嬉しい思いをした。それと共に吃る癖がさっぱりと癒って、君前へ出ても何ら差支ないことになった。この事だけでも私が既に相当の年になっていながら、内気で稚気が離れなかったことが分かるのである。
 小姓になると共に寄宿舎を退いた。この際初めて六等を得た。これで御雇の資格も出来たのである。しかし小姓は前にいった番入と同じ勤仕の仲間で、年々父の禄の外に三人扶持を賜って銀六枚などよりは遥かに身分もよかったのである。
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   九

 世子は当時、家茂将軍の長洲再征の御供として、京都に一隊の藩兵を率いて滞在して居られたので、私もそこへ行って勤務をすることになった。私と同時に小姓を命ぜられた者は岡部伝八郎、中村勘右衛門、野口勇三郎であったから、この四人が三津浜から大阪行の藩の船に乗り組んだ。この船は何時《いつ》もの荷船ではなくて、関船といって、常には君公か、家老の乗るのであるが、折節船の都合でそれへ乗せられた。勿論同船者は他にもあって、物頭役の戸塚甚五左衛門とか、平士の長野、岡部、伊佐岡とかいう者も乗組んでいて、戸塚はじめ我々の家来なぞもあるから、随分多人数が乗ったのである。戸塚はモウ老人であったが、大いなる瓢箪酒を持ち込んで、ちびりちびりと飲んでいて、折々私どもへもくれたが、私はその頃全くの下戸で、もし猪口に二つか三つも飲めば吐くという位であったから、断って一口も飲まなかった。関船にはちょっとした座敷造りの狭い間が二つもあって、上の間は戸塚一人で占領し、次の間に私どもの小姓四人が居た。それから平士の三人は舷の或る間に居て、また他の舷には大勢の家来が居た。この家来は、下等な者であるから、退屈の余りには種々の噺《はな》しを始めて、中にはのろけ噺しもするし、随分猥褻なこともいっているので、私は始めてそんな噺しを聞いて面白くもあったが、また厭わしくなって来た。この海路はさほど長くかからずに大阪へ着いた。私は出立の頃から少し風邪を引いてるように思っていた、それが段々と熱も加わって、終に一日おきの間歇性即ち瘧となった。私は前にもいった如く、父の看病に京都へ行った時既にこの瘧に経験があるので、そこで自分で治す事も出来ようと思って、ちょうど備後の鞆《とも》の津《つ》に滞船した時、自分で陸へ上って薬屋で幾那塩を買った、この港は例の保命酒の本場であるから、彼方此方に土蔵造りの家屋も見えて、かなり富んでいるように思われた。それから例の如く幾那塩を飯粒の中へ入れて丸薬にして、かつての記憶の如く三度に飲んだ。後から思えばこれは、劇薬の部で分量もよく調べねばならないのに、大概の目分量で飲んでしまったが、別に害ともならず、翌日から全く熱が下った。そのうち大阪へ着いたから、これからはいつもの三十石の夜船に乗るはずなのだが、長州再征なぞの公用のために殆んど空いている船がないというので、終に一晩大阪の藩邸に泊って翌日は陸路を伏見へ行くことにした。これからは同船した一行も銘々勝手に行くことになったが、我々の同僚四人は連れ立つことにして、いずれも歩行で枚方に昼餉をしたため、それから伏見へ着き、なおその足で京都まで行った。この里程は十三里もあるのだから、同行中の年少者たる野口は時々歩き悩んで、路傍の草の上へ倒れたこともあった。しかるに私は瘧が落ちて間もないのだけれど、さほど弱りもせず、他の人々に比して後《おく》れずに歩いた。私は今でも足はかなり達者だが、他の身体の割合に足が比較的丈夫なということは、この頃からもそうであったのだ。
 世子の本陣は、前年と同じ寺町の或る寺であって、その供方の者どもは、いずれも近傍の寺々を借りて置かれていた。そこで私どもはその本陣へ行って到着のことを届け、同僚はじめ他の役々へも挨拶して、それから同僚どもの居る或る寺へ下がって旅装を解いて、いよいよそこへ落着くことになった。同僚は我々どもを加えて二十三、四人も居たろう。先輩では木脇兵蔵、野沢小才次、菅沼忠三郎、それから小林伊織、山本新三郎、この二人は私の従弟である。また小姓の上に立って君側の監督等をしている側役《そばやく》なるものも三、四人あったが、その中に下村三左衛門というは私の叔父である。その他にも前から顔を知っている者もあるので、兼ていう如く内気な私でも、さほどの心配もなく、最初より親しく交際もした。その上に、私は漢学が出来ているということは多少知られていたのだから、同僚中でも漢学の出来る者は最初からそんな話もするし、その他の人々も何ほどか新参扱いにしなかった。なお一つには父が枢要の位置に居るということにも御陰を蒙っていたのであろう。父もその時やはり世子の御供をして、目付と側用達とを勤めていたのである。
 翌日からいよいよ小姓の勤をするのだが、従来の例としてまず見習いということをさせられる。これは同僚の詰所の一方へ新参の者を並ばせて、何事もさせず、ただ先輩の同僚の執務するのを見せるばかりである。この時間は口をきくこともならず厠《かわや》に行くのも断って行く、弁当も古参から食べといわれねば勝手に食うことは出来ない。そうして肝腎の君側の執務は間を隔てているから、何らも知れないのである。つまり太平の余習として何に限らず、古参は新参に威圧を加え、それで位地を保つというような弊が、この小姓などの仲間にもあったのである。この見習いは常なら五日ばかりもさせられるのであるが、軍事を兼ねた旅行先であるから、我々のは二日ばかりでモウ見習いを免された。そこで翌日から世子にも拝謁して直々に御言葉も給わるし、また三度の御膳の給仕もするし、寝床の出し入れから衣服の取扱いまでをするのである。この君側のことはなお次ぎに詳しくいおう。
 小姓の勤めは、朝番というのが、六ツ時から午後の八ツ時まで、八ツ番というのが八ツ時から夕の六ツ時まで、宿番というのが六ツ時から翌朝の六ツ時まで、互に交代したものである。そうして宿番は宵のうちこそ世子も起きられているがその後寝床へ入られても、小姓は不寝番というをせねばならぬ。そこで宿番を宵前、宵後、暁前、暁後と四ツに別けて、代りやって不寝番をする。この不寝番は一人で、他に介というが一人ある。世子が夜中厠に行くといわれると、不寝番が、直に寝ている介を起して、二人でその用を勤めるのである。僅かな距離の厠でも、一人は脇差を持っていて、厠に入られた間はその外に待っている。モウ用達が済んだらしい音がすると、一人は厠の中の手洗鉢のある所まで行って、世子の手へ水を濺《そそ》ぐ。それから床に入られると、もとの如く一人は起きて、一人は介だから寝るのである。この不寝番は、以前はそんなこともなかったらしいが、世子の側に附くものは、文武を励まねばならぬというので、不寝番でも読書することは許された。尤も黙読である。また寒中は火鉢を置くことを許されたのみならず、ちょっとしたドテラ見たようなものを背に着ることも許されていて、それを御不寝羽織といった。この宿番は小姓の外側役も一人居る。側医師というも一人居て、これは小姓の中へ交って不寝番もせねばならなかった。医者で思い出したが、私の京都に着した頃から、風邪が流行していて、我々の同僚も風邪に罹り、遂に前後して誰一人罹らぬ者もないようになった。こんな時は無論引籠りといって、届さえすれば本復するまで勤をせないでもよいのである。私も数日床に就いた。この同僚の居る所は、二十三、四人が三室ばかりに襖を外したままで居るのだから、寝床を敷けば殆んど足の踏場もない位に窮屈であった。そんな風だから風邪の伝染しやすいのは尤である。この頃の風邪の薬は例の葛根湯で、少し熱が強ければ、セキコウを加える。咳がすれば杏仁を加える。この外多少蘭方を知っているものは、葛根でなくて茅根を用いて茅根湯といっていた。
 前にもいう如く、小姓の勤めといっても随分暇があるのだから、その時は外出も勝手次第にしていた。遥か前の号で、江戸藩邸の勤番者の非常に外出の束縛を受けていた事を話したが、この頃はこんな旅行の出先では、余り束縛もなく全く出入自由である。けれども、将軍再征に関する陣中ということは誰れしも心得ているし、長だった者からも監視を加えるからさほど遊蕩に耽ける者はなかった。就中世子の側に仕えているものは、一層謹慎しているから、外へ出て酒を飲むといっても、その頃から流行出した、軍鶏《しゃも》とか家鴨《あひる》とかの鍋焼き店へ行く位のものであった。稀に一、二の人はそれ以上の料理屋めいた所へも行ったらしく、帰って来て酔った余り唄の一口か踊の真似をする者があったが、周囲からは眉をひそめて厭わしく見ていた。この者は世子が帰城すると直に免職となった。そんな風で、我々は暇があればまず読書をする。また少しは時世論などもする。また詩歌の出来る者は和歌を作り、詩を作る。同僚中で詩の出来る者は、前にいった菅沼と従弟の山本と、この外に中村粂之助、側役では宮内類之丞、石原量之助、また余り作りはせなかったが、叔父の下村も多少詩を知っていた。それで私は例の時世を詠じた詩や、松山出発以来の途中の詩や、なお着京以来聞き噛った時事の問題に渉る詩などを見せたり互に次韻をしあったりして、いよいよ同僚中でもこんな才のあることだけは認められた。
 この頃の京都は彼の長洲兵が、禁門に発砲した騒動で、その残党を捜索するという事から殆んど人家の大部分を焼
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