き払った後であるので、段々と人家も出来てはいたけれど、皆粗末な板屋葺きで、所々に焼瓦の散っている空地もあった。しかし今日でいう新京極一帯の地は、小芝居から浄瑠璃、落語、その他の興行物や飲食店はなかなか盛んであった。そうして私どもの寓所よりも近かったので、誰も外出すれば、このさかり場を逍遥したものである。私は最前父が京都留守居の時こそ、家来に舁がれてしばしばここへ見物にきたのであるが、今度は文武を励む世子の側仕えをしているという自重心から、芝居浄瑠璃その他の見物は一切せなかった。ただ或る葭簀張り店で蒸し鮓を売っているのを一度食べて、美味かったから、外出すればそれを食べるのを何よりの楽みとしていた。この外は或る時人に誘われて、四条あたりで汁粉店へ入ったことが一度あるのみである。そこで或る時父に出逢った際、(親子でも勤め向が異《ちが》うから昼夜別居していて逢う事は稀れであったのだ。)父が雑用が要るなら遣ろうかといったが、私は一ヶ月に貰う四両ばかりの金を、右の蒸し鮓代の外何も遣わぬから、遣い道に困っている位なのでその事をいったら、父が笑っていた。実は漢籍などには欲しい物もあったのだが、藩の城下では自ら買い物するという習慣が余りないので、なんだか本屋へ行くのも間の悪い気がして、それも買い得なかった。これは次の旅行からは、多少腹が太くなって、色々漢籍を購うこともして、それを買い過ぎたといって父から叱られたこともあった。
家茂将軍の再征は、誰れも知る如く、種々なる事情があって、将軍は京阪に滞留したまま進退|谷《きわ》まるという立場になられたのであったが、終に長防へ討入りという事になったので、松山藩は海路四国の先手を命ぜられた。そこで世子は父たる藩主のこの軍事を補佐したいといって、幕府に願われたので、帰藩する事を許された。
そこで我々どもも世子に従って京都を出発し、伏見からは、小船で大阪へ着き、それから、藩の方から廻してある関船やその他の船に乗った。尤も君側の者は、前にいった当番をせねばならぬのだから、常に世子の関船に離れないようにしていて、この船も御召し替えという同じ型の関船であった。私は十一歳の時から既に大阪と藩地との航海をした位であるに、船には最も弱く、モウ乗ったと思うと心地が悪くなる。こういうと、それは覆没を恐るるからだという人もあるが、いかに風波のない時でもやはり酔う。あるいはブランコに乗れば一とふりでモウ胸が悪くなる。現今の汽車でもレールが悪くて半日以上も乗っているものなら、モウ食気がなくなる。一体動揺するものに乗ることが私の体には適せぬのだ。そうして左右動は、まだよいが、上下動になると最も困るのだ。そこでブランコと船とが就中閉口せざるを得ぬことになる。けれどもこの船嫌いも、航海をする一回は一回ごとに嫌いになったので、この世子の随行は最初から七回目であったから、今日ほどは弱らなかった。そこで一日だけは世子の側で、勤務もすることが出来たが、少し風波が強くなったので、翌日からは終に引籠った。同僚の日々勤務するに対してなんだか気の毒ではあったが、終に寝たままで幾日か経て藩地の三津浜へ着いた。この海路でまず伊予国の岩城島《いわぎしま》へ着くと、これから城下まで十八里であるが、モウ松山領内に属するから、なんだか勇ましい心地がする。しかのみならず、今でいえば御馳走船とでもいうべきあまたの小船を、岩城島その他の島から出し、それを漕ぎ連らねて世子の船の案内をする。尤もこれは附近に花栗の瀬戸という難所があるから、そのためもあるのだ。そうして、そこらあたりの島で篝を焚く。ほのかに島人なども浜辺に集うて居るのが見える。これに対する快味は今日の人では判るまい。なお岩城島の山頂で世子の船が見えたというと、狼煙《のろし》を揚げる。それから主なる島々が受継いで、三津浜の向うの興居島《ごごしま》に達する。この狼煙に因って、それぞれ出迎え等の準備をするのである。世子が三津浜に着すると、船番所というがあってその座敷で休息する。そこへ家老一同が城下から来て拝謁する。それから行列を調えて城下へ入り込むのである。が、この頃は多事の世の中にもなっていたから、行列などは多少省略されていた。供に附く者なども昔の如き服装をせずむしろ陣中だという様子にしていた。
松山城は、本丸と二の丸と三の丸というがある。かつてもいった、加藤嘉明がこの城を築いて本丸やその周園の[#「周園の」はママ]櫓等が出来た頃に、会津へ転封されて、その後を蒲生家が貰ったので、まだ出来てない二の丸を造った。この蒲生家も暫時で亡《ほろ》びて、その後を松平隠岐守即今日の久松伯爵家が貰ったので、更に三の丸を造られた。そうして藩主は常にこの三の丸に住居せられたから、世子はいつも二の丸住居となっていた。
この二の丸は、主なる書院が、一の間、二の間、三の間となっていて、襖《ふすま》やその他の張り付けが、金銀の箔を置いて立派な絵が描れていた。定めて蒲生時代の名家の筆であったろうが、無風流な青年の私は、人に聞いても見なかった。ただその廊下から湯殿へ行く処の二枚の襖は、唐木の透かしになって、大きな金の桐の紋が付いていた。これは豊臣太閤の桃山御殿の遺物が蒲生家に伝っていたのを用いたということである。世子の常の居間は最近に造ったもので、こは割合に粗末なものであった。その居間から、右の三ツの書院の縁側を通って、一段下った所が、我々小姓の詰所である。その隣室に側役の詰所がある。この二つの詰所を、御次ぎといった。この外藩政に関係する役人の詰所は、この御次ぎを離れた場所にそれぞれあって、それらの役人はこの御次ぎへは猥《みだ》りに一歩も踏み入ることを許されていない。家老でさえも、世子に拝謁したいと思う時は、それを御次へ申し込んで、世子の御都合を伺って、その上で御次を通りぬけて、それから廊下を経て御居間へ赴くのである。この家老の御次ぎを通りぬける時は、当番の小姓の先輩が、面番と呼ぶ。そうすると、今まで小刀を抜いて側へ置いていささか休息していた一同が忽ち小刀を帯びてその中の二人だけ一方へ並んで坐る。その前を家老が通るが互に一礼もしない。そうして居間の外の遥か隔った所で、家老は小刀を脱いて置く、(凡て殿中では上下共に小刀のみである。長刀は君公に限り小姓が持つ。)それから、無刀のままで居間の入口から膝行して世子の側へ進んで用談をするのである。常には我々小姓が世子の居間に必ず二人ずつ詰めているが、この時だけは御次ぎの方へ下っている。そうして家老が下って次ぎまでくるや否、小姓二人は直に世子の居間へ前の如く詰るのである。居間は上の間と下の間となっていて、世子は上の間に蒲団を敷いて坐って、その側に小刀が刀架に掛かっている。長刀は少し離れた床の上に置いてある。小姓二人は下の間で世子に対って坐っていて、世子から詞を掛けられない以上一言も発せない。いつも左右の手を畳の上に突っ立てた風に置いている。膝の上にあげる事は許されない。いかにも厳しい容体で、世子を張り番しているかという風だ。世子にはさぞ窮屈だろうと思われるが、習慣上そんな事もないらしい。世子といえどもやはり行儀に坐っていて足一つ横へ出す事もせられない。口をきかぬ時は殆んど睨み合いの姿である。勿論我々の小姓は袴をはいている。世子は袴を穿かれない。それから庭へでも下りて散歩でもしたいと思われると、居間の小姓二人が必ず附添う。一人は世子の小刀を持つ。どちらへ歩まりょうが、影の形に添う如くこの二人は離れない。悪く言えば監視附きの囚人というさまだ。それから厠へ行かれる時は今もいった宿番の時の通りである。この厠についてもちょっと言うが、世子の大便所は引出しの如きものになっていて、籾殻が底に敷いてある。そうして一回一回大便を捨ててしまうので、御下男といって最下等の卒の掌《つかさど》る所である。これは男子たる方々の厠の式で、婦人方となると私の聞いている所では、大便所は万年壺といって深く掘って、殆んど井戸のような者であるそうだ。これは始終大便を捨てるということはない。勿論貴き人は一人一個の厠を占有せられているから、生れてから死ぬるか、もしくは他へ縁付せられるまでは、この一つの厠へ用達しをして、その人が居なくなると共に、その万年壺を土で埋めてしまうのである。かように数年もしくは数十年間の大便は深い壺に溜っているのだから、傍へ近《ちかづ》いても臭気紛々たるものであったそうだ。
また世子の方へ立戻るが、世子は日に一回は必ず御霊前拝というがあって、この時は、袴を着け小刀を帯び、小姓は長刀を持って附いて行く。また少々不快で横に寝たいと思わるる時は、側役を呼ばせてその事を告げられる。側役が宜しう御坐りますというと、それから小姓が褥《しとね》を敷くのである。褥の下には別に御畳といって、高麗|縁《べ》りの少し広い一畳を敷く。これは御居間方と云う坊主があって、持ち出して敷く。そうして小姓が凡ての夜具をその上へ敷くのである。小姓も侍だから御畳には手をかけない。やはり士分以下の坊主に扱わせるのである。この坊主はその頃の風で袴は穿かず、羽織ばかりを着ている。この坊主は時々居間その他の生花をする事も役である。また世子が入湯をされる時は、湯加減その他風呂場の準備をする。それから世子の背を流したり、衣服を脱がせ浴衣を着せたりすることは小姓の役だ。もし世子が、今少し熱くせよとか、ぬるくせよといわるる時は、まずそれを小姓に告げ、小姓から坊主に告げ、坊主から風呂場の外に居る風呂焚きの仲間に告げる。世子は決して坊主に直接に口をきく事は出来ぬ。けれども実際小姓に告げらるる詞をモウ坊主はきいているから、それぞれ命令通りにするのである。世子がちょっとでも物を書かれた紙の反古は小姓が持ち下って、御火中という或る籠へ入れる。また洟《はな》をかむとか唾を吐くとかせられた紙は、これも持ち下って、御土中という籠へ入れる。これは名の如く後にあるいは焼いたり、あるいは埋めたりするのである。それから三度の食事は大概時刻も極っているからまず小姓一人が御次ぎ外の遥か隔った御膳番という役の詰所へ行って、『御手当』という。『畏りました』と御膳番が答えて、それをまた下々の役へ伝えて準備をする。少時経って世子が、もう食事を出せといわるると、また一人が走せて行って、御膳番に『御付方』と告げる。そこでいよいよ出来上った膳部を、御膳番が他の役手を引連れて御次ぎの入口まで運ぶ。すると側役がそこへ出て御膳番と対坐して御毒見をする。これは各々の膳に雛の椀や皿見たような小さな器に、その時世子の食べられる飯その他あらゆる物が少しずつ盛ってあるのを、二人で食べるのである。それが済むと、『御出方』と御膳番が叫ぶから、小姓がその膳部を受取って、世子の前へ据える。この据え方にも極った儀式がある。膳が据わると跡から飯を入れた飯櫃が出る。これも側役と御膳番とが立会で、各々口を袖で覆うて杓子を以て、掻き交ぜて検査した上で出すのである。この飯を盛る役は当番の小姓中で最先輩に限られている。また茶は坊主の今いった、御居間方の次へ付く者が兼て用意をしていて差し出す。これには何故か御毒見はない。尤もこの坊主は、御居間へは出られないから小姓が取次ぐのである。世子の膳具は黒の漆塗りに金で蒔絵がしてあって、中は朱であった。膳も同じ蒔絵である。そこで飯櫃を司っている小姓は最初の一椀を盛る時杓子で飯櫃の飯の上へ久の字を一字書く真似をする。そうして盛って出すが、盆は用いないで、椀の底の方を手で持って出す。世子は小食であったから、大抵二椀位で稀には三椀食われた。副菜は一汁二菜と外に漬物一皿と限られていたが、一椀の飯を尽されると共に一人の小姓は直に下って代りの汁椀を持って出てそれと引替える。汁の外は、平が一つと皿に焼肴とか煮肴あるいは刺身位が盛ってあるのだが、その平の蓋は必ず、小姓が取ったものである。この副菜は御膳番の方で大体好かるる物や好かれぬ物を知っているから、一度ごとに選んだものであるが、さりとて世子が何を食べたいとか
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