てた沖の日振島《ひぶりじま》というにも小学校があるので、そこへも行ったが、最近は大分地方の大砲の音がよく聞えるという事であった。この日振島は昔し天慶の乱に、伊予掾純友《いよのじょうすみとも》が遥に将門に応じて兵を起した根拠地であると聞いたので、目前の西南騒動と思い合せて一種の感慨に打たれた。
西南の騒動はヤット鎮静したが、その頃我愛媛県は讃岐国をも合併していたので、私はその方の学校の視察にも赴く事になった。この地方で高松人は、早くより土州の立志社に共鳴してその支社を開いていたから、それらの人々は旺《さか》んに演説会を開いて自由民権の唱道をしていた。因て県庁から出張した私などは時々あてこすり位は聞かされた事があった。
しかし自由民権といえば松山の変則中学校の草間時福氏も慶応義塾出身だけに、随分主張していた。のみならず岩村県令も同志社の親分株の林有造氏の実弟であるから、これもその主義は頗る賛成であった。そこで、県庁の下においても草間氏が率先して演説会を開いて自由民権を主張する、先生がそうだから、学生などもそれに加わりなお一般の松山人にも熱心な運動者が出来た、私の末弟の克家も変則中学校の教授の手伝い位をしていたから、私の母方の従弟中島勝載と共にこの演説会に加わって、かなりお喋りをしていた。かような風で、愛媛県下は殆んど同志社の主義の下に立って、暗に政府に反抗する如くにも見えたので、政府はその頃自由民権論に対して多少鎮圧を加えねばならぬという事になっていたから、終に岩村県令も内務省の戸籍局長へ祭り込まるる事になった。
右は明治十三年の夏に入る頃であったろう。その以前一月には始めて地方官会議というが東京に開かれて、府県の長官もしくは代理の次官を集めて、或る問題を出して評議させらるる事になった。議長は元老院の副議長の河野|敏鎌《とがま》氏で、議案はおもに内務省、大蔵省から出して両者の大書記官が番外員として説明に当った。そこで岩村県令もこの会に加わるために上京せらるる事となって、私に随行を命ぜられたから、またまた東京を見る事が出来た。この会場は和田倉門外|龍《たつ》の口の或る旧藩邸の跡の古建物を用いられ、三室位打ち抜いた長方形の内間に、白木綿を掛けた粗末な板の卓が並べられて、椅子も粗末な籐椅子であった。そうしてその三方の縁側には、本省の官吏や府県の随行員や新聞記者が数多並んで、これも籐椅子に腰をかけていた、陛下にも開会式と閉会式とに臨幸があって勅語を賜わった外に、一回会議を聴聞あらせらるるために臨幸があって、一時間余も私どもは天顔に咫尺《しせき》したのである。玉坐は正面の少し高い所に設けられ、卓には錦が掛けてあった。その後ろには、宮方始め、三条太政大臣、その他の大官が着席して居られた。陛下はまだ三十歳位の御年齢でおわしたが勅語は朗々としていかにも確かな御声であった。殊に一時間余も御臨席あらせられた際、玉体は勿論龍顔に少しの御動きもなく、殆んど目じろきさえも遊ばされなかったのは、私どもの一層恐れ入った事である。しかるに新聞記者あたりは、筆記の都合に依ると、椅子を下りて長靴のまま膝を組んで筆記するもあった。我々どもも泥靴のままで控えている。各地方長官さえも、モーニングコート、背広などを勝手に着ていて、フロッコートを着ている者は稀れであった。靴は多くゴム靴で随分半靴などもあった。ましてや我々どもの服はいよいよ区々《まちまち》で、私はこの上京後新調したモーニングを着ていた。今日と違って、宮内省辺りでもそれに何らの干渉もなかった。議題はもっぱら地方の施設に関する事件であったが、その頃は各地方官も、随分若やいだ意見を述べて、あるいは故意に主務省の議案に反対するかとまで思わるるものもあった。この答弁に当る番外員は、内務権大書記官矢野文雄、大蔵大書記官尾崎某氏であって、矢野氏の弁は論理法に適っていてなかなかうまかった。そうして、地方官の中にも自然に政府党に傾く者と、在野党に傾く者との区別が暗々裡にあったように思われた。まず民権党では、我岩村県令や、高知の北垣県令、千葉の柴原県令などで、官権党は京都の植村府知事、神奈川の野村県令などであった。それから鹿児島からは、県令代理として渡辺大書記官が出ていた。即ち千秋氏である。この他に藤村山梨県令とか、高崎岡山県令とかもよく口を利いた。また東京府知事の松田道之氏は中でも先輩顔をしていて、なるべく議論の纏まるよう注意したようである。そこで議長は河野敏鎌氏であるから、高知人でもあるし、その頃は民権主義になっていたのだが、職務が職務である故公平に扱って、弁舌も明瞭であった。
私は明治九年の師範学校長を雇いに来た時も岩村県令から視察して来いと言われたので、千葉県へ往って師範学校や中学校を見せてもらったが、また今回も同県へ視察に行く事になった。この頃はまだ諸県でも稀れにある、女子師範学校を見たのを珍らしく思った。
こんな事をして、県令の随行とはいえ自由行動も出来るのであるから、例の好きな芝居も見た。そうしていると俄に国元から電報があって、継母が大病で危篤に瀕しているという事であった。そこで県令に願って俄に帰県する事にして、この時前にもいった弟の兼三が在京していたから同行せしめたのである。この頃は三菱会社の汽船が沿海の航路を大分占領していて、それは西南の戦争の際、政府が運送の必要上、岩崎弥太郎氏へ巨額の資金を給与して、これまで日本の沿海は米国の汽船がおもに往来していたのを買収して、それに充てた。爾来年々補助金を給与したので、日本沿海だけはヤッと三菱会社の汽船で荷物や旅客を乗せる事になった。けれどもその頃、英国の或る汽船会社が、三菱会社と競争して、これも日本沿海を往来していたので、政府は三菱会社を後援するため、同会社の汽船に乗るには、何の手数もかからぬが、この英国の汽船に乗る時は予め或る筋の許可を得ねばならぬという面倒をさせた。しかるに私が帰県する際ちょうど三菱船がなかったので、やむなく手数をして英国船の方へ乗った。尤も千|噸《トン》以下で船脚も遅かったが、おまけに風波が起って動揺が甚だしくなった。私は少年の時には和船に乗ってもまださほど酔わなかったのだが、その後は回一回と船に弱くなって、汽船に乗って平穏な時さえも食事などが充分に出来なかった。そこへこの風波だからいよいよ閉口して、臥床に横わって頻りに吐いて、終には胃にあるものは吐き尽して、小量の血を吐くまでになった。私は右の如く船嫌いとはいえ、さほど動揺に逢った事もなかったのだが、今度始めて厳しい動揺に逢って非常に苦痛をした。そこでこの船は四日市へ着く規則なのだが、その沖までは達したけれども、右に廻ると暴風を横に受けるから、それが出来ない。因て無駄に沖中に四、五時間ばかり漂った末、やっと四日市の港に入った。私は元来神戸まで往って、それから別の内海通いの汽船便を取るつもりであったが、モウ船には懲り懲りしたので、四日市へ上陸してそれから陸路を神戸まで行った。その後の航海はまず平穏で、いよいよ松山へ達して帰宅して見ると、継母は既に人事不省に陥っていて、帰県した事を告げたが殆ど知れなかった。そうしてその夜死去したので、それから葬式万端の事を営んだのである。
そこで前に立戻って、岩村県令は一度地方官会議からは帰県されたが、在京中にモウ内々の話しも済んでいたのであったろう、政府から、内務省の戸籍局長に転任を命ぜられた。我が県の主立った市民は民権主義であったから、人望も同氏に帰していたので、この転任は非常に失望したけれども仕方がない。それで三津浜出船の時などは、旧藩主が江戸へ出発する時、御曳船といって数多の小舟が印の旗を立てて御船唄というを歌いながら、沖まで漕ぎ連れて藩主の船を送ったものだが、その例を再び用いて、盛んに県令の出発を送ったので、岩村氏も頗る満足せられた。
今回県令の更迭は今もいう如く岩村氏が民権主義に傾くという事からであるから、新来の県令は漢学者で保守主義である。関新平氏というが拝命された。この人は佐賀人でこれまでは茨城県令をしていて、水戸人とは気風が会っていたから、この度の転任と共に茨城県人を数人連れて来て、課長や重なる県官の椅子は段々とそれらに与えた。そうして今まで岩村氏に親しかった者は氏の周旋で内務省へ転任した。それは衛生課長であった伊佐庭如矢氏、勧業課長であった藤野漸氏、その他伊藤鼎氏、辰川為次郎氏、これは皆松山人で、また他から来ていて庶務課長であった南挺三氏もその一行であった。それから租税課長の竹場好明氏、会計課長の篠崎承弼氏は宇和島人であったが、これは留任した。一体岩村県令の民権主義を最も賛成して、その他常に出入りをして県令と親しかった者は我松山人なので、その訳から皆転任せしめられたのである。そこで私だが、前にもいった如く、最初、その頃では異数の抜擢に逢って、学務課で働く事が出来、肝付兼弘氏が他へ転任してからは、学務課長を命ぜられていたのであるが、私の性として新らしい事新らしい事と知識を拡めて行く、そこで明治の始めこそ、福沢風におだてられ、また民約論や三権分立論などを読んで、自由とか民権とかを神の御託宣のように思っていたのであるが、その後ブルンチュリーの国法汎論なども読み、また文部省雑誌といって西洋の新らしい論説を載せたものを読んで、段々と独逸《ドイツ》の国家主義を知る事になったから、余りに突飛な民権主義は同意せられないようになって来た。そんな事で、草間時福氏が変則中学校に拠って福沢風の民権主義を唱うるに至っても、私は学務の当局者でありながら、それほど熱心に賛成せない。そうして岩村県令に対しても、さほど遠ざかるというでもないが、他の同郷人の或る者ほどには親しくないようになった。それが新来の関県令には聞こえていたので、貴公はそのまま学務課長に居てもよいというような内諭があった。けれども、今までの同僚で、殊に同郷人は多く東京へ行くし、また椅子を並べる課長等は新顔も多くなるという事になっては、なんだか、そのまま落着いている気もしないので、終に東京へ転任したいという事を答えた。しかし他の同郷人は岩村氏の転任した内務省へ幸と採用されたのだから、官等はそのままで行く事が出来たが、私は学務課長で転任するなら文部省である。文部省は私に対して何らの縁故も無いから、来るなら今までの二等属を四等属に下げねばあき場がないという事であった。そこで私も少し困ったが、何しろ今までのままでは居たくないので、終に決心して四等属を甘んじて、いよいよ文部省へ転任する事になった。ちょうどこの年の七月であった、大書記官の赤川※[#「韻/心」、288−10]介氏、これは長州人で別に民権主義でもなかったが、長官が代るにそのまま居るのも、難儀だと思ったものか、転任させてもらうことになって、この転任先きは忘れたが、とにかく家族を連れて当地を発して東京へ赴かるるので、私も家族を連れてそれと同行した。この航海は神戸からは三菱会社の船の東京丸というに乗った。この一月に上京する時は、名古屋丸というに乗った。いずれも米国から買入れたので、名古屋丸は旧名ネヴァタ、東京丸はニューヨークといったのである。この途中神戸で楠公神社へ妻と共に参詣したが、福原には妓楼なども出来ていて、旧観を更めていたのに驚いた。それから東京へ着いては兼て願って置いたので、日本橋区浜町二丁目の旧藩主久松伯爵邸の御長屋へ住むことになった。
[#改ページ]
十七
私はこの年の歳末に、久松家の麻布長坂の別邸へ、行くようにとの事であったから、そこへ移った。その頃は東京の物価も余り高くない時であったが何しろ五十円の収入が四十円に減って、しかも都会生活をしなければならぬというのだから、随分困難であった。私の家庭は前にもいった、長女長男の外になお次女せいというを挙げていたので、その頃は親子五人の暮らしであった。それからここへ来ると文部省へは一里と十丁ばかりの距離であるが電車もない時代とて、それを日々歩いて勤めた。衣服も多くは唐桟
前へ
次へ
全40ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング