《とうざん》に嘉平次平の袴位を着るし、あるいは前にいった、地方官会議の随行の時新調した、モーニングコートを着ることもあった。靴は半靴を好んで穿いた。これは往来の遠いため早く損じて度々新調したものである。それから家族の衣食もそれに准じて粗末なもので辛棒させて、魚や肉などは余りに買わないで多くは浅蜊《あさり》や蛤《はまぐり》または鰯売り位を呼込んで副菜にし、あるいは門前の空地に生い茂っている藜《あかざ》の葉を茹でて浸し物にする事もあった。顧るに私の一生で生活の困難を感じたのは、この頃が最も甚だしかったように思う。しかしその年末に三等属に昇り、その翌年は二等属に、また翌年は一等属に昇るという風に、漸々と収入は増したのだけれども、都会生活だけにやはり苦しい事は苦しかった。
翌十四年に副局長の久保田少書記官が、神奈川、埼玉、群馬三県へ巡回する随行を命ぜられたので、それらの地方の学校その他の様子を見る事が出来た。この時神奈川の或る小学校で、教育上に関して久保田氏の代理として演説をする事になったが、或る拍子に詞が滞ると共に思想が散漫して後の語が継げず、頗る不体裁をしでかした。尤も私は藩の学校などでも講義をするのは人よりもうまかったから、人中で喋る事は多少の自信もあったのであるが、忘れもせぬ、学区取締となった最初に、小学校設置の必要を松山の有志者に説き聞かす時、少しいい詰って、出来そこなった事がある。それ以来、大勢の前での演説は少しおくれ気味になっていた所へ、この度文部省出張官の位置としての演説であったから遂に失敗したのである。これは後の事だが、それに懲々《こりごり》して、文部省勤務中は演説事は断って全くせなかった。その後子規に導かれて俳人生活をする事になって卅年頃に神田の或る学校で講演会を開いた時に思ったよりも巧く喋舌った。次に徒歩主義会の講演を神田橋外の和強学堂で開いた時も出来栄えがよかった。そんな事で私は元気を回復して、今では演説や談話は好んでもする事になって、聴衆が多ければ多いほど弁舌もいくらか伸びるという風になった。
一体学制の頒布は第一に小学教育の普及を主眼としていたのであるが、まだ強迫就学という事までは進んでいなかった。しかるに私が県地にいて小学教育を督励していた経験では、是非とも強迫就学となし、その教育費も他の租税の如く、賦課するのでなければ結局の目的は達せられないという事を知っていたから、最前地方官会議の随行中文部省に出頭した時もこの意見を述べるし、また九鬼文部大輔にも面会してこの事を話して置いた。けだしこれは他の地方からも私と同じ意見を申し出た者が多かったろうと思う。そんな結果からか、田中文部大輔が法制局へ転任して河野敏鎌氏が文部卿となり、九鬼氏がそれを輔佐せらるる事となった際、遂に強迫就学と学費も租税同様賦課せしめらるるに至った。これが十三年末の大改革で、改正の教育令といった。ちょうどそこへ私は文部省へ転勤したのであるから、主としてこの改革に関する施行規則等の調査に従事した。まだその頃は大学卒業の学士などは一人も官吏となる者はなくて、多くは古い漢学や変則洋学を修めた人達であるから、私の如き自己研究の聞噛り学問をした者であっても、いくばくか用に立つ、また理論を徹底せしめるという事は私の今でも得意とする所であるから、そんな事で位地の低いに関らず、意見は充分に立てる事が出来た。ただ江木千之《えぎかずゆき》氏が先進者でその頃二等属から一等属になっていたが、これが唯一の議論敵で、それだけ互に親しくもしていた。その後も江木氏が何か主任となって調査する時には、必ず私を係員にして意見を聞かれるので、私も用捨なくそれを述べて頗る知己としていた。それから局長は辻新次氏で、副局長は久保田譲氏であったが、これも私の事務を調査する上には他の人よりも長所のあるという事を認められていたらしく、久保田氏は能《よ》く人を叱り付ける風であったが、私だけは幸に優待を蒙っていた。そして私の性質としても引受けた事は、飽くまで努力して充分やらねば気の済まぬ風であったから、他の人よりは数倍の用向を引受けてそれぞれに調査を遂げていた。暑中休暇の如きも、他の人は休んでも私のみは一日も休まずに勉強した事もあった。
この教育令の施行規則は文部省から随分と綿密に干渉して殆ど地方官には何らの活用もさせぬというような風であったので、地方の当局者は時々上京して不平を述べる者もあったが、それに対しての答弁は私が多く引受けて、聞き噛りの独逸《ドイツ》や、米国の或る州の学制などを引用して正面から喝破した。その頃私は独逸主義の国家教育制度を一も二もなく信仰していたのであった。
私は幸に文部省の位置も段々と進むし、多少生活も豊かになったから、いつまでも久松邸の御厄介になっているのも恐縮だと考え、十七年の二月、上六番町へ家を借りて移転した。この頃は長女の順はもう小学校も終る頃になっていたので、近傍の桜井女学校へ入学させた。校長は、今は誰れにも知られている矢島|楫子《かじこ》刀自であったので、宗教上の教育も受ける事になり、また私の妻も時々説教を聞く事になって、終に母子共に洗礼を受ける事になった。私は元来は漢学をしたのであるが、まさか孔子や孟子の説を唯一に信ずる事も出来ずその後は西洋の翻訳書などを見て、多少智識を博めたので、いよいよ信仰というものはなくなって、むしろ無宗教という事を自分ながら得意としていた。が、一般の人間は何らかの宗教心のあるのがよいと思い、就中婦女子はそれが必要だと考えていたので、右の如く妻や娘が洗礼を受けたいといった時も、快く承諾して、むしろそれを奨励したのである。而してよく先方から招かるるので、私も時々は説教を聞きに行って、その度に説教者にぶつかって種々と議論もした。就中奥野某氏といって我国では最初の基督信者で、彼のバイブルの翻訳者である、彼の人などとも度々議論した。また英人のイーストレーキ氏などとも議論をした事がある。その頃島田三郎氏も多少基督教に傾いていたので、これとも出逢って話をした事であった。そんな事から私は、基督教を一通りは調べて見たいと思って、同志社出身では横井時雄氏、金森|通倫《つうりん》氏、小崎弘道《こざきひろみち》氏などにも話を聞いた、これは組合教会の方だが、また一致教会の植村正久氏へは就中しばしば行って議論を闘わした。また仏教の方でも島地黙雷《しまぢもくらい》氏に話を聞こうとしたが、これは余り私どもの如き者を寄せ付けぬ癖があるので、若手の方で平松理英氏北条祐賢氏などとしばしば出逢って話をした。その他村上|専精《せんじょう》氏吉谷覚寿氏黒田真洞氏にも面会した事がある。それから佐治実然氏はもっとも好い議論敵で、なお大内|青巒《せいらん》氏にも交際した。かように基督教も仏教も研究するだけはして見たのだが、それが根本的に私の意に適せず、或る疑点は誰れに質問しても明答を得ない。そこで、自分でバイブルも見るし、仏経も随分読んで見たが、やはり充分に満足が出来ない。そこで今度は、哲学の方面を、翻訳書ではあるが、古今に亘って調べて見たが、これもこの説ならというほどの満足が出来ない。因って私は今日も宗教は勿論、哲学上に一つも同意するものはなくて、唯自分で或る哲理的の宇宙観乃至人生観説を持して、余義なく満足しているのである。私の意見では、何事も事実に説明されたものでなくては信ずるに足らぬ、而して理学はまずその側のものであるけれども、これもまだ絶対的に宇宙の事物を研究せられてはいない。ただ幾分かそれが出来ているから、それを基礎として、知り居るだけの事を知って、その立場立場で比較的確かなというものに満足しているのである。そこで今日よりも明日、更に知る点が出来たなら、またそれに移って行く、要するに事実と共に私の智識は進んで行くのであって、その比較的確かなものを信じて、これに満足をする外はないのだ。この事を話せば際限もないから、ここらで止めて置くが、そんな考えがその頃から出来て、遂に今日に至っても変らないのである。
十八年の末に森有礼《もりありのり》氏が文部大臣となって兼て抱いていた学事の改革を実行せらるる事になった。この人は凡ての法令の案文は自分で書く風なのであったが、それを修正して発表するには辻次官からの命でいつも私が筆を執った。私はこれ以前一等属より進んで准奏任御用係というのでいたが、この際更に文部権少書記官に昇進した。翌年は伊藤博文氏の総理大臣の下に官制その他の大改革をせらるる事になったので、更《あらた》めて文部省書記官となり、而して往復課長となったのだが、規則の制定や改正などというといつも私は特別にそれに関係した。
森文部大臣の自分で法令案を書かるる事は前にもいったが、なお学事の方針や施設の心得等に関しては、絶えず各地方を巡回して当局者に親しく講演され、それを筆記したものを印刷して一般へ示さるる例で、この文章の潤色も多く私が担当していた。忘れもせぬ、廿一年紀元節の憲法発布式の日、私は大礼服がないので、――以前拝賀には借着した事もあれど――不参をしていたが、右の大臣の講演筆記の潤色用を急がるるので、特に文部省へ出勤し折からの大雪の寒冷を忍びて、筆を執っていると、俄に電話が掛り、大臣が負傷されたとあったから、急に車を馳せてその官宅へ行って見ると、意外も意外、森氏は西野文太郎という書生に刺され、西野はその場で大臣護衛の斎田某に切殺されて、廊下は血だらけになっている而して医師達は既に集ってもっぱら森氏への手当中であったが、氏は既に昏酔に陥って、時々大声を発して無念らしい唸きをせられていた。私と前後して他の人々も駈けつけて、官舎は忽ち大騒ぎとなった。而して森氏はその夜遂に亡くなられたがこの終焉の記録等も、辻次官の命で私が筆を執った。森氏は英国駐在の公使を久しく勤めて居られたにもかかわらず、普通教育は全く独乙《ドイツ》式で、挙国兵の基としてまず高等及尋常の師範学校に兵式体操を行わしめ、順次に小学校は勿論、中学校等にも兵式体操を行わしめ、なお一般の学校に人格気質の養成という点を厚く注意せしめられ、またこれまでは他省に属せし工科農科の大学や専門学校を、総て文部省の管理に移し、諸事統一的経済的に学政を敷かれつつあったのだが、一朝この凶変の起ったのは実に惜しい事であった。
遡っていうが、私が東京へ転任した翌年に次男を挙げて、惟行と命《なづ》けた。十九年には三女を挙げてらくと命けた。
私も既に月給は百円ずつ貰っていたので、その頃の物価ではこの金額でもやや寛ろぎが出来るはずだが、夫婦共に会計上に拙いので、他の同僚の如く人力車夫を抱える事も出来ず、雇い車の車夫にやっと看板の仕着せ位をして済ませ、文部省の弁当も判任官以来五銭弁当で甘んじていた。借家は最初の上六番町から下六番へ移り大分奮発して九円五十銭の家賃を払う事になった。こんな生活だけれども月給ではどうかすると不足を告げ、終に借金が出来るようになったので、一つそれらの整理をせねばならぬと思い付いて、廿一年に妻と相談の上彼に次女と次男とを連れさせて一時郷里の松山へ赴かせた。この少し以前、三女らくは実扶的利亜《ジフテリア》に罹って三歳で亡《なく》なっていた。そこで長女順は桜井女学校へ寄宿せしめ、私は長男健行を携えて神田の三崎町に下宿した。この際、従弟で浅井から養子に行った天岸一順というが学問のため出京していたのでこれもこの下宿へ同寓せしめることにした。知人などからは、年を取って官吏生活をしていながら下宿するのは可笑しいじゃないかといったけれども、私は平気でいた。この頃であった、独逸人のスピンネル氏が、基督教を日本へ弘めるために来てこの人は哲学にもなかなか達していたので、その門人で居た同郷人の三並良氏の通弁で度々宗教話を聞いたが、やはり私の意には満足しなかった。廿二年には暑中休暇を貰って松山の妻子を省みた。十三年に東京へ来てから十年ぶりであったので、故郷とはいえ、諸事珍らしくもあり、また人々にも歓迎された。それから翌廿三年
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