大学本校跡を東京師範学校と名けて師範学科を多くの学生に教えさせ、次に大阪へも大阪師範学校というのを設けて、東京師範学校の卒業生などを以て同様に師範科を教授せしめた。この学校を出た土州人の安岡珍麿というを明治七年に愛媛県へ招聘された。これが我県で文部省の規定に合った小学教育を施すの端緒である。そうしてそれを拡めるため、伝習所というを、松山に置かれて、私は学区取締からその主幹を兼務して、この伝習の事にも当った。そこで松山人は勿論県内の大洲、宇和島、今治、小松、西条等の小学教育に従事する重《お》もなる者を呼び集めて伝習を受けさせた。けれども余りに子供らしい事を習わせられるのだから、一般の者が本気で習わない。そこで私はわざとその仲間へ入って他と同様に伝習を受けた。彼の文部省で出来た、掛図の、いと、いぬ、いかり、ゐど、ゐのこ、ゐもり、などというのを、安岡氏が教鞭で指定するに連れて高声を出して読んだ事を今も覚えている。
これは翌年八年へかけての事であるが、この八年は熊本県で江藤党が騒動を起して、同県の県令たる岩村高俊氏は辛うじて身を免れた位であったが、それが鎮定すると共に、愛媛県の県令に転任された。この人は土州人で、夙《つと》に平民主義を持っていたから、普通教育には最も意を注いで、従って私どもの学区取締にも、度々直接して諮問せらるる事もあった。そこで私はいつもハイカラであるから、何らも憚らず、聞き噛りの自由主義などを喋舌《しゃべ》った。それが、あたかも岩村氏の意に投じたので俄に抜擢されて十一等出仕の学務課勤務を命ぜられた。そこで私も今までは松山附近の学事の管理者であったのが、伊予国全体の学事に関係する事となったので、多少得意となった。そうして岩村県令の下にいよいよ小学教育の普及を謀らねばならぬと思って、その頃は東京大阪の外に、仙台と長崎と広島とにも師範学校を設けられ、段々と卒業者を出していたから近接せる広島師範の卒業者を五人我県へ招聘した。そうして県内を六区域に分って、松山伝習所の外に、宇摩郡の川之江、新居郡の西条、越智郡の今治、喜多郡の大洲、宇和郡の宇和島へも伝習所を置いた。尤もいずれも速成であるが、まずまず文部省の規定の教授法等は一般へ習わせる事が出来たのである。
しかるに間もなく文部省の視学官が視察に来る事になった。それは野村素介氏並に随行員二人であった。そこで私はその一行を案内して県下の小学校を彼方此方と見せたが、野村氏のいわるるに、この県には未だ県立師範学校がない、他の県の多くは師範学校が出来ているから是非それを設けよとの事であった。私はそれに対してそんな師範学校を設くるよりも各地へ伝習所を置いた方が実際教授の普及には裨益があると抗弁した。けれども他の県に師範学校があって見れば、我が県にそれがないのも口惜しいと思って、その事を岩村県令に建議して、それなら相当の学校長を雇って来いという事で俄に出京を命ぜられた。因て直ちに出京したが、野村視学官はまだ帰京していなかった。そこで文部省へ出頭して、良い東京師範学校卒業者を求めた結果、松本英忠氏というを雇入るる事になった。そうして創設したのが現今も存在している松山の師範学校である。この創設と共に各所の伝習所は廃止して、その主任で居た教授法の諸教師は改めて派駐訓導と名けて、相変らず伝習はさせた。それから、中学校もなければならぬというので、これには慶応義塾から草間時福氏というを招聘して主として英書を教えさせ、別に漢書の教場をも設けた、この教師は松山在来の漢学者を用いて、太田厚氏が首坐であった。けれども未だ学制の中学科の制には一致する事が出来ないので、これを変則中学と名けた。この変則中学校には草間氏の周旋で更に西川通徹氏とかなお一、二人の英書の助教を雇ったのである。
そんな事で愛媛県も初等教育と中等の教育とは、どうかこうか施す事が出来たので、私は彼方ら此方らと巡回して、主としては小学校を視察した。小学校ではいつも臨時試験を行って、私はかつて師範科の伝習を朧気ながら受けていたから、自ら教鞭を執り、ボールドに向って、白墨を使い、生徒の試験をしたのは、今から思えば可笑しい。
この年妻が長男を生んで、健行と命名した。
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十六
ちょっと前へ戻るが右の師範学校長を雇うために上京した時、暫く滞留したので例の芝居見物をしたのだが、折節守田|勘弥《かんや》が猿若の小屋を新富町に移して改良劇場を作って、作者は河竹黙阿弥を雇いいわゆる活歴物を多く出していた。私の見たのは仙台萩の実録とかいうので、先代彦三郎の原田|甲斐《かい》、仙台綱宗、神並父五平次、先代|芝翫《しかん》の松前鉄之助と仲間嘉兵衛、助高屋高助の浅岡、板倉内膳正、塩沢丹三郎、先代菊五郎の片倉小十郎、神並三左衛門、茶道珍斎、先代左団次の伊達安芸、荒木和助、大谷門蔵(後に馬十)の酒井雅楽頭、大阪から来た嵐三右衛門の愛妾高尾であった。私はこんな新作物は始めてであるし役者も揃っていたので面白く見物した。この度の旅行は末弟の克家を随行せしめていたので、これにも見せて喜ばした。そんな事で平気で滞京しているうちに、今一人の弟の薬丸兼三が九州辺に居て或る悪竦[#「悪竦」はママ]な会社の手先に使われて監獄に入ったという事を聞いたので、まず克家を帰県させ、それから私も校長の雇入れが極ったので、実は公務もそこそこに心配して帰県した。これは後の事だが、右の兼三の事件は幸に刑法にも触れずに放免されたが、私はこの事を非常に怒って、養家に対しても済まぬといって終に先方に談合して離縁してもらった。そうしてこの際兼三には遥の祖先が一時称した宇野姓を名乗らせた。またこの際から私は彼と義絶して暫く書信もせなかった。がその後彼は函館へ行って税関の雇員になっていたが、折節米国の金満家の娘が病死して、その嫁入の手当てとして別に積んでいた金を、宗教の宣伝費に充てたいという希望から、函館にその頃までなかった女学校を設ける費用に寄附した。そうしてモウ弟も大分真面目になっていたのでその教頭となった。そうして私も兄弟互の通信をする事になった。そこで何か好い校名を附けてくれといって来たのでその資金の来歴に依って、私は遺愛女学校と名を与えた。この学校は今でも彼の地に存在している。爾来卅年ばかり兼三は教頭を勤めていたが、かような教会学校では老後を保護してくれる見込もないので、遂に東京に帰って来て他に生計を求めたけれどやはり適当な事業もないので、旧友の押川方義氏や上代益男氏等の周旋に依って、更に布哇《ハワイ》へ移住し、児童に日本語を教える学校の教師となった。その妻は会津人で函館の師範学校を卒業しているから、夫婦共稼ぎで学校を受持っている。そうして三人あった娘の二人は布哇で、日本人の夫を持っている。が、最近米国の排日主義で、日本語の学校は非常に圧迫を受けているようだから、兼三も定めし困難している事であろう。これは随分先に走った話であるが、ついでながらいって置く。
前へ立戻って、右の如く兼三は薬丸家より離縁させたが、私は弟に代って薬丸家の事は出来るだけ世話をするといってその頃居た祖母と、弟の妻であった女とは相変らず私の家屋続きへそのままに同居させていた。その後この薬丸家から他へ養子に行っていた者が、これもある事情で離縁されて帰って、これが一家を経営する事になるから、従って私も薬丸家の世話をせずとも済む事になった。
愛媛県の学事は岩村県令が熱心に奨励せられるので、私もその下に出来るだけ勉強していた。その頃は文部省が、全国を五大学区に区分して、我県は広島、山口、岡山、島根の諸県と共に第四大学区に属していた。そこで他の大学区にもした事だが、同大学区内の聯合教育会というのを起そうという事になり、我県も承諾したので、明治十年一月県官を広島へ派遣する事になった。即ち広島がこの年の聯合教育会を開く位置に当ったからだ。そこで私は、学務課長の肝付兼弘氏と、外に師範学校長の松本英忠氏及前にいった派駐訓導の一人を率いて出張する事になった。この聯合教育会では、岡山県の学務課長加藤次郎氏というが洋行もした事があるというので、多くの人に知られていて最初の議長となった。けれども諸県の集り勢で、銘々勝手な意見などを立てるので、この加藤氏は、元気のよい替りに短気者であったから、度々怒鳴り付ける、一方には反動的にいう事を聞かないという風で、議場が度々騒いだ。そこへ私が巧く投じて双方を緩解したので、意外に衆望が私に帰して、二度目の議長選挙には私が議長となった。なお次の改選にも当選したのでいよいよ得意となって議場の整理は手に入って来た。ついでながらいうがその翌年は山口で同じ会が開かれて、この時も肝付学務課長と共に私が出張したが、やはり議長に推薦された。けれども、長人気質は、他県人の下に立つ事を嫌うので、殊更に反抗して議長を困らせるような事があったから、私は厭気になって、再度目の議長には山口県の学務課長落合済三氏を当選させる事を運動してそうさせた。その次の年は、岡山県下で同じ会を開かれたが、ここでは三度ながら、私が議長を勤めて別に騒ぎも起らずと済んだ。要するに、今日でもそうだが、諸県の教育当事者が、集ったといっても、別に何一つ仕出かす事もなく、多くは互に議論を闘わして半分は物知り自慢をするという位にとどまっていた。
忘れもせぬがこの初度の教育会に、まだ広島に居る際、予て多少噂もあった薩州の私学党が、西郷を戴いていよいよ兵を挙げたという報知があった。それから帰県して見るともっぱらこの西南騒動の噂ばかりで、人心が恟々としていた。そのうち熊本城で賊を喰い止めたが、その与党が我県と海を隔ている大分県にも蜂起して、今にも我県へ攻め来りそうになった。しかのみならず、県下でも、宇和島、大洲方面には大分西郷に心を寄せる者もあって、少しも油断のならぬ状況になった。或る日警察課長の武藤某氏がこれから大洲地方へ出張するといって、部下を随えて行ったが、三、四日して帰った時は、多くの国事犯人を捕縛して来て裁判所の方へ引渡した。これは大洲と宇和島との不平党仲間で、大分県の蜂起すると共に、我県でもこれに応じねばならぬといって、密に兵器を貯えて、まず松山の県庁を襲撃するという事に申し合っていて、今やそれを実行せんとする際、武藤警察課長が入り込んで捕縛したのであった。銃器弾薬などは、その人々の家の縁の下などに隠してあったという事である。して見ると、一つ違えば県庁へ打ち込まれて、我々の県官もひどい目に遭うのであった。尤も県庁でも、何時事変が起るかも知れぬというので、多数の県官が、宿直する事になっていて、私も宿直の日は短刀位は用意し、なお元気を付けるために瓶詰の酒位は携帯していた。そんな事で学事は多少捨て置かるる事になったが、いつまでもそうしては居られぬというので、段々と学校の視察員も派遣されて、私は宇和島方面へ行く事になった。そこで、南宇和郡というは、大分県と海を隔てて相対する地方だが、そこの城辺小学校というを視察するため一泊していると、俄に騒がしくなって、今薩州方の軍艦が海岸へ着いたといって、荷物などを片付ける者もあった。そこで私も全く賊軍中に陥ったので、ひどい目に逢うだろうと驚いたが、逃るる路もない、刀を仕込んだ杖一本は携えていたけれども、実に心細い感がした。しかるに右の騒ぎは全く間違いであって、海岸に着いた軍艦は官軍の援兵で、大分県へ赴く途中碇泊したという事が分り、私もホット安心した。そのうち私の止宿している宿屋へも官軍の賄をせよといって来るし、そこらここらに往来する兵隊も見た。それが俄か製の粗末な小倉か何かの服で、鉄砲の外腰には長刀を佩びていた。これは例の抜刀隊に当る覚悟なので、多く、会津、仙台辺りの士族であった。そうして彼らは往年己れ等を賊として攻めた官軍の大将西郷が、今度はアベコベに賊となったから、復讐的に官軍となって征伐するという、或る敵愾心を持っていたのである。私はこんな事で、そこそこにこの地は引揚げた。なお宇和島から遥に隔
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