下へ敷かせて、その膝の上へ大きな石を乗せる、二ツ三ツと乗せると、膝は上下で圧迫されて痛むから白状する。まずこれらの拷問を普通にしたもので、その他にも種々の拷問器具が置いてあったが、これは威かしのためで多くは用いなかった。そこで、今いったような拷問を私も隙見をせねばならぬことになったが、最初は見るに忍びず、また少しは怖いような気もしていたが度重ると、もう何の感もなく、強情な奴にはまだ少し強く責めてやってもよかろうという感を持つようになった。人間の残酷性はつまりかような習慣から養成されるのである。また或る時、かつて私の知っていた士分で某という人が、藩の紙幣の贋物を造ったというので訊問に遇った。隙見だから私の顔は見せないけれども、その人の顔は充分に見えるので、多少気の毒な感がした。これも正権少属が主任となって調べたが、士分の事であるから、最初は椽先へ薄縁《うすべり》を敷いて、そこへ脱刀した袴姿で坐らせて、段々と訊問したが、存外包み隠さず、ありのままを申し立てたのであった。その翌日また隙見をすると、最う某は袴も脱がされて、白洲の筵の上へ坐らせられて、なお問い残りの事を問われていた。これは士分の格を奪われて、平民扱いにされていたのである。この人は以前の藩の例では死刑を免れぬのであったが、その頃朝廷から新律綱領が頒布されたので、贋金等も百両以下は死刑に処せぬ事となって、この某も何年かの徒刑で済んだ。
 このついでにいって置くが、他の藩々でも多くはそうだが、私の藩でも久しき以前より紙幣を発行していた。これは銀札と銭札との二種があって、銀札は何の都合であったか余り世間には行われないで、もっぱら銭札が行われていた。銭札で大きなのは百|匁《もんめ》、五十匁、それから十匁、五匁、一匁、五分、三分、二分までがあって、その銭の額やその他の文字の外、七福神とか、鯉の滝登りとかが描いてあった。そうして百匁が六貫文であるから、十匁は六百文、一匁は六十文という定めであった。勿論銭の代りに発行する訳だから、いつでも銭に引換えて遣らねばならぬのだが、藩の威勢と、人民の信用とで必要がなくては、それをせない。必要とは士民誰れに限らず、藩外へ旅行する時と、商人が物貨を藩外で仕込む時とである。この時は御掛屋という役所が立っていて、そこで引換をする。尤も銭のみでなく、金銀をも渡した。こんな事で、何時必要があれば兌換が出来るから、平常藩内での売買は士民共に紙幣で済ませて、何らの不便も感ぜなかったのである。今でいえばその紙幣は彼の日本銀行紙幣も同じようなものであったのだ。そうして兌換の準備の金銭といった処で、年々する旅行とか、貨物買入とかもほぼ極りがあったから、それだけを見込んでお掛屋に備えて置けば、藩内の理財上には何らの支障もなかった。これは後の話しだが、藩を廃して県となった際に、この藩々の紙幣は悉皆朝廷より正貨と引換えられた。その引換えの率は藩々の市価に依るものとせられたが、松山藩の紙幣は、六貫文の百匁が、五貫文の割合であったから、所持している市民も余りに、損をさせなかった。聞く所では、従来財政の困難であった藩や、就中維新前後に多くの藩費を要した藩は、準備金のない紙幣を濫発して、その結果廃藩の頃は非常に低下して、半分以下十分一にもなっていた処があったようだ、そこへ行くと私の藩はかつてもいった、桑名楽翁公の甥に当る定通公が藩の文武を奨励せられ、就中財政に意を致されたために、その後数代を経てもこの遺法を遵守していたから、維新前後に藩費の増大し、殊に、十五万両の献金をさえ命ぜられたにかかわらず、右の如く紙幣と正貨との差が僅かで済んだのは士民の幸福であった。しかし前にもいった昨年の大改革で、平均禄をしたのは随分思い切った処置で、この事は一般の士族に大いなる迷惑をさせたのである。聞けば、他の藩々では幾等かに分って禄制を定めた所が多い。就中薩州とか長州とか、その他重なる勤王藩では、少しも禄制を変じていなかったそうだ。それもそのはず、朝廷では外国に対する国力を養うには、是非とも封建を改めて郡県にせねばならぬという、内々の評議で、それが漏れていたから、藩限りに士族を困らせるような改革はせなかったのである。しかるに、私どもは少しもこれら内議を知らず、まだ藩は永く存置せらるるものと信じ、その藩力を養うためには、士族の禄を減少し、文武の諸政を振興するのが、かつて朝敵となった恥辱を雪ぎ、また時世に応ずる朝廷への報効だと思っていたのである。
 いよいよ四年の七月に朝廷から廃藩置県という御沙汰があった。そこでわれわれは喫驚して、右等改革もその効果を見ることの出来ぬのを遺憾としたが、元来われわれには例の開化主義であるから、日本の国勢においては、廃藩置県は適当であると思って、この上は自分らの企画が無駄になった事よりも政府の大英断に向って心窃に謳歌した。勿論祖先以来戴いた君公と離るる事は人情として忍びない処だけれども、日本の存立上に考え至れば如何ともし難いと諦めた。しかし一般の士民にあってはその点には何らの智識もないから、非常な驚愕を以てこの御沙汰に対した。尤も藩籍奉還後、藩主が藩知事となられた上は、久松家はほんの或る役目を旧藩地に務めていらるるだけで藩地は既に旧来の如き領分ではなく、従って君臣の関係も既になくなっているのだが、領主がそのまま知事となっていられるので、それらの制度や事実が全く判っていなかったのである。そこで今般の廃藩置県は久しく戴いた、殿様を一朝にして失うのだと思う事から、驚いたのも無理はない。しかのみならず知事にして一度藩地を去らるる上は、如何なる人が来て、松山を治めて、如何なる虐政を施すかも知らぬという惧れもあるので、これはどこまでも知事の留任を乞いて、藩であろうが県であろうが、相替わらず、久松家の政治の下にありたいという事を希った。即ちこの廃藩と共に、知事は従来の公家達と同じく華族となって東京へ移住せらるるからである。
 この知事留任の希望は終に具体的の騒動となって、その先発は城下から七里離れた山分の久万《くま》山であった。この久万山は浮穴《うけな》郡の一部分であるにかかわらず従来一郡として取扱われていた位広い地域であるが、その全部が互に申合って、竹槍蓆旗で城下へ強訴するという事になった。かような騒ぎが起っては、第一朝廷に対しても済まぬというので、当局はいずれも心配した。就中久万山租税課出張所の権大属藤野漸氏は種々説諭もしたが、なかなか聞き入れぬ。そこでこの上は兵力を以て鎮圧してもらう外はないといって、単身藩庁へ駈け着けた。けれども大参事鈴木重遠氏は剛胆であったから、未だ兵力を借るには及ばん、自分で説諭するといって、少参事長屋忠明氏を具して数人の属官と共に久万山へ赴いた。そうして、租税課出張所において二、三の頭立つ者を呼んで説諭しようとしたが、誰れも出て来ない。かえって総勢はその出張所の門前を吶喊《とっかん》して過ぎ行きいよいよ城下の方へ向う様子となった。そこでやむをえず鈴木氏も長屋氏と偕に藩庁へ引揚げたが、さすがにまだこの両氏の一行に危害を加える者はなかった。しかるに租税課の少属重松約氏は、いらぬ事だに一人洋服を着ていたから、暗夜の事といい群衆中に、それ西洋人が来たと叫ぶ者があるや否や数人が竹槍を持って重松氏を馬から突落して、かなり重傷を負わせた。既に大少参事は引取るし、藩の官吏に重傷を負わせるという事になったから、一揆はその勢で久万山を下り、浮穴郡の他の部分や久米郡伊予郡へも同様に蜂起の煽動をした。そうして出て来ねば家屋を焼くと威かしたのでいずれも久万山の一揆に加勢することになった。もとより知事公留任の希望というは、藩地全般にそうなのであるから、多くは待っていたといわぬばかりに一揆に加わったのである。そうして手始めに久万山以外の浮穴郡を管轄している租税課出張所を焼いた。そこでここにいた権大属石原樸氏も藩庁へ来て、この上は是非といって出兵を求めた。
 この一揆の起った事を旧知事の久松家にも聞き込まれ、このまま捨て置かれぬといって、まず旧家老あたりの者やその他藩の元老顔をしている者に説諭を托された。従って私の父櫨陰もこの仲間に加って、彼方此方と奔走して説諭をしたのであった。がなかなかそれらの説諭には承服せない、一揆の与党には温泉《おんせん》郡、和気《わけ》郡、風早《かざはや》郡、野間郡等も加わって、残る処は周布郡桑村郡のみであった。この両郡を管轄している租税課出張所の権大属白井守人氏は殆ど身を挺して熱心な説諭をしたので纔《わずか》に防ぎ止めたのであった。しかのみならず、城下に居る士族や解放された卒なども、改革に遭って門閥家禄を失い、あるいは平民に落されたという怨恨もあるから、何か事あれがしと思う矢先にこの一揆が起ったのだから、いよいよそれが城下に繰り込む時は、共に力を協せて藩庁を攻めて、大少参事を殺戮してしまおうという考えの者も尠くなかった。そこで藩庁はかつてもいった如く、三の丸が焼けたので、二の丸に設けられていたが、一揆の起った頃から、大少参事その他属官等も藩庁に詰め切って頻りに鎮圧の評議を凝した。そうしてこの二の丸の高台から眺望すると、城下近くまで諸郡の一揆は押し寄せていて吶喊の声雷の如く起り、また租税課の出張所はその後久米郡も焼かれたので、それらの焔が天を焦がしている。夜に入ってはいよいよ物凄い光景で、藩庁は全く敵国の中に陥っている姿になった。そこで私もいよいよ死を決したが、百姓の竹槍に突かれて嬲り殺しにされるのもつらいから、どうかして敵前に進み出て彼の銃丸に中りたいと思った。勿論彼も猟銃位は沢山持っていたのである。しかし素手でも向われぬから、兼て親の時分に買っていたカラビンという短銃を宅から取寄せて、弾のある限り、それを打ってその後は刀を振りかざして駆け込むという考えであった。
 こうなって来ては遉《さすが》の鈴木大参事も兵力を用いるのやむをえないという事になって、一大隊ばかりもあった藩兵を東条少佐に率いしめて、一揆の主力が居る久米村方面へ向けて出陣せしめ新立の橋を渡って石手川の堤に防禦線を張った。そうして一里ばかりも隔った敵陣へ大砲を発したが、そのため一揆の中に二、三名は弾に当って即死した。しかも旧砲術家の用いた火矢というものも放したので、それが敵陣へ飛んで行って地上に立ってシュウシュウと火を吹く。こんな事で一揆は大分荒胆を取られて、そこは百姓の事とて意気地なく忽ちに崩れ立った。こうなると各郡民は己がじしコソコソ引取って、竹槍などもどこかへ隠して、何知らぬ顔で家に居る。そうして主唱者であった久万山の百姓さえもいつの間にかまた山中へ帰ってしまった。思ったよりも脆かったので、私どももほっと息を吐き少しは張り合いのない気もした。それから東条少佐は隊兵を率いて久米浮穴両郡から終に久万山の山中までを廻って示威をした。
 この一揆打払いの少し以前に前知事も自ら家職を率いて一揆に対して説諭をされた。その詞には自分に留任をさせたいという事は辱けないが、それでは朝廷に対して嫌疑を受けて、結局自分の罪となる。この点を考えてどうか鎮静してもらいたいといわれたのだが、騒ぎたった一揆はなかなか静まらない。知事の一行が、進んで行かるればその方は後へ後へと退くが、他の一方の途から一揆の別隊が城下へ向って進む、どうする事もならぬから、前知事も持あぐんで引取られて、終に藩兵の攻撃するに任されたのであった。
 いよいよ一揆が治まった上は、前知事一家は朝廷の御沙汰に従って東京へ移住されねばならぬ。しかるに、その出発に当ってはきっとお止め申すといって再び一揆が起るという噂であったから、そこで藩庁においては各郡の総代たるべき者をよび寄せて大少参事列席の上説諭をした。それには鈴木重遠氏が主としていい聞かされたが、威重あり弁もあったから、意志は充分に徹底した。この頃は最う竹槍蓆旗では抵抗出来ぬと諦めた百姓ばらだから別に抗論もせないが、また承服もせない。一先一般に申し聞せて考えさせようという位な処でいずれ
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