も引取った。その後諸郡では、この上は各総代を上京させて、朝廷へ直接に知事の留任を願おうという事に申し合った。これは松山町でも同様で、町人の総代数人を上京せしむる事になった。
 この知事留任の一揆騒動は他の藩にも多くあったので、既に南隣の大洲藩でもなかなかの騒ぎであった。一揆の全部は既に藩庁を取囲むに至ったので、権大参事の山本某というもっぱら藩政の枢軸に当っていた人が、自ら割腹して一揆の反抗心を暫く[#「暫く」はママ]鎮めたという報にも接した。
 しかしいずれの藩も一揆の気焔は間もなく鎮静して前知事はいずれも上京せらるる事になったので、私の藩の知事久松定昭公もいよいよ上京せらるる事になった。少し前に遡っての話しだが、定昭公は最前もいった如く、年壮気鋭の方であったので、既に王政となった上は、またこの下に充分尽力して、かつては幕府に効した力を以てこれからは朝廷に効したいと思われ、養父勝成公に代って藩政に臨まるるに至っては、われわれ大少参事を率いて充分に藩屏の任を揚げんと欲せられたのである。ついては近傍の藩々の知事も同僚であるから互に藩治上の打合せをするため、まず同姓である北隣の今治藩へその事を申し込まれ、彼の藩の知事は大少参事を従えて松山へ来られ、また定昭公も大少参事を従えて今治へ赴かれた事もあった。その他文武その他の藩政も充分にあげらるるつもりでいられたから、廃藩置県の御沙汰にはちょっと出し抜けを喰われたのであるが、時世に着眼の早い公の事であるから、何らの躊躇もなく屑《いさぎよ》く出発せらるる事になったのだ。そこでその当日は、万一の騒動も起ろうかというので、久松家を始め藩庁でも随分心配したが、幸に何の故障もなく、三津浜へ下って乗船せらるる事になったのは少し意外であった。
 前知事の去られてからの藩庁は大少参事で暫く藩政の残務を扱って、新に命ぜられる、県官の赴任を待ち引続きを為すという運びになった。けれどもそれは翌五年にならねば実際の運びは出来そうもない、そこで私はこの上藩庁に居た所で、残務を扱う外何の用もなく、学校の改革は可笑しいながら、してしまった、別に手を着ける事もない。手を着けた所で、やはり人に引継がねばならぬ、頗るつまらんような気になったと共に、往年藩より命ぜられた洋学の修業を祖母達に止められ、また自分も気弱くて止めたのを残念に思っていた際だから、この機会に、先はともあれ藩庁の存している間に再び洋学修学の命を受けて東京へ出ようと思い付いた。この事を親友のこれまで庶務課の権大属でいた由井清氏に謀って、同氏も同行しようといったから、終に大参事始めに内意述べて、いよいよ望み通りに藩費を以て洋学の修業をせよとの命を受けた。これは四年の年末であったが、私と由井氏と二人の外に、父の里方の従弟に当る菱田中行という少年も洋学修業としてこれは自費で出京する事になった。海路は別に滞りもなく大阪へ着いて、それから東海道を東上した。勿論いずれも書生の身分だから日々徒歩と定め、よくよく足が疲れると荷馬の空鞍に乗った。その頃珍らしかったのは、三河地方の平坦な土地では、人が曳いて土石などを運ぶ、板で囲った小さな荷車に、旅客をも賃銭を取って乗せてたので、私どもも三人一緒にそれに乗った事がある。今日の如く、バネがないから、車輪から立つ砂埃は用捨なく、乗客を襲うので、これには随分閉口した。川口は幕府の時と違って船渡しの手当も充分であるし、また冬の季節でもあったから、別に川止めにも出会わず無事に東京へ着いた。この道中の大磯からであったと思うその頃東京ではもっぱら流行していた人力車というものがあったので、三人ながらそれに乗った。実に早いものだと驚いた事であった。
 東京へ着した時はまだ藩の出張所は何とかいった、京橋あたりの旅店に設けられていた。そうして三田の藩邸は久松家の住わるる私有邸となっていた。私どもはまず藩の出張所へ到着を届けて、そこへ一、二泊させてもらった。その内従弟の中行は三田の慶応義塾へ入塾した。私と由井氏とは芝の新銭座の或る人の坐敷を借りて寓居した。三度の食事はその頃始まっていた、常平舎というから弁当の仕出しをさせた。この常平舎は東京到る所にあって頗る書生どもに便を与えた。中には一家族が煮炊の煩累を避けてこの常平弁当を喰べる者もあるとさえ聞いた。この新銭座に居た頃忘れもせぬのは年越しの晩であったが、つい近傍の浜松町の寄席へ由井氏と共に行った。影絵の興行で、折々見物の席も真闇となる、そこでその真闇が明るくなった際、気が付いて見ると私の懐中がない。今しがた、布団代を払ってそのまま懐中を傍へ置いたのだが、右の真闇に乗じて誰かが盗んだのらしい。席亭へも話して見たが捜索の道がない。やむをえずそのまま帰寓したが、この懐中は最近二分で新らしく買ったのである。金はたった二分残っていたのだから、それらはさほど惜しくもないが、この懐中には実印が入っていた。もしもそれを他人に使用されては如何なる迷惑が来るかも知れぬから、それのみが懸念で堪らぬ。今日なら印形の遺失とか盗難とかの届をするのだが、その頃はそんな道もないから、せめてもの申訳でもあるし、また入用でもあるので、新たに実印を彫刻せしめた。私はかつてもいった通り、母方の伯母聟の中島翁に師克という実名を貰ったが、師克の師は憎まれ者の師直の師と同じなのが厭なので、自分で永貞と改めた。これも易の坤卦から取ったので、そうしてこの度失った実印も永貞と彫っていた。しかしそれを今後名乗るのも気がかりなので、更に素行と改めてそれを実印に彫刻せしめた。これは中庸の文言から取ったのである。しかるに後年何事も成行きに任すという事の当て字で鳴雪と俳号を付けた関係から、この素行までを、ナリユキと読む人があるが、これは元来モトユキと読ませているのである。
 一事言い落したが、私の上京した際、かつてもいった弟の薬丸大之丞は大学南校の貢進生で居たのがこの頃はかような生徒の廃止せられたので、従って藩費も貰えぬ事になっていた。けれどもその頃の生《な》ま意気書生などにおだてられてどうかして他に学費を得てそのまま修行を続けるつもりだといっていた。藩地の父は頗るそれを心配して私の上京を幸に、大之丞は是非とも郷地へ帰すようにと命じたけれども彼は容易にそれを承諾せなかったが、終に叱り付けて帰してしまった。この際餞別として例の猿若の芝居を見せて遣った。この他にも由井氏と同行したりあるいは自分一人で芝居の見物は随分したのである。
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   十五

 今回の出京は、英学の修業が目的であるのだから、その手順を求めたのであるが、私といい由井氏といい、書生としては老書生であるので、まさか少年輩と同じ級で、ABCを習うのも間が悪い。といって自分の都合のよい学校もないから、或る日同郷の先輩藤野正啓氏に相談すると、それは私が、親しくしている岡鹿門の塾へ行くがよい、彼の塾頭には河野某というが、同じ仙台人で漢学の傍ら英学を修めていて、岡の塾は漢学と洋学とを二つながら教授しているからその洋学の方を学ぶといって入門するがよい、私が紹介しようと肯われた。そこで私は由井氏と共にその頃愛宕下町にあった岡塾へ行って、まず岡先生に面謁し、それから塾長をしている河野氏にも逢った。兼て藤野翁からの依頼もあり、私どもはもともと漢学生であるという事を知って居られたので、岡先生も漢学話などをせられて、数時間も居て辞し去った。しかし二人ともサア今日から行こうという気にならず、なんだか横文字の書を開くのがオックウな感じがして、一日一日と遅らした。そのうち或る都合から由井氏とは同寓する事をやめて、私は藤野翁の宅へ頼んで同居させてもらった。そこでいよいよ岡塾へ行く機会を失ったが、この宅にも塾を開かれて、漢学を教授して居られ、塾長は会津人の斎藤一馬氏といって、この人は漢文が巧かった。そんな事から私は持って生れた漢学の嗜好の関係よりこの塾中の人々と交際をして、詩の応酬なども始めた。
 この藤野宅に寓居している時であった。ある日大火だと人が騒ぎ出したから、塾生らと共に行って見ると、今しも和田倉門内の旧大名邸が燃え落ちて、飛火が堀を越して某邸へ移って盛んに燃え揚る所であった。そこでこの火の燃え行くのを見物しつつ段々と歩いて、即ち火事と同行をなしつつ築地まで行った。けれども余りに風が強く砂が眼に入るので遂に堪え切れずして帰寓した。この火はとうとう海岸まで焼け抜けて、西本願寺を始め、その頃有名なる築地ホテルも烏有に帰してしまった。これは明治以後東京始めての大火であったのだ。
 そうこうするうち、明治五年となって、いよいよ旧藩庁が新設石鐵県へ事務を引継ぐ事となり、従って私どもの学資も出所がなくなった。藤野翁はこちらで修業がしたいなら、その学資位はどうかして周旋しようともいわれたが、私は郷里の父が彼の平均禄位では生計が立たず、さぞ困却していようと思うと、この上東京で一人安気にぶらぶらしているのが済まない感が生じた。これは初一念とは違うのだが、小胆な私はこう思い出すと、矢も楯も耐らず、藤野翁の好意には反くけれど、終に帰郷する事に決した。由井氏も同様に帰郷するはずであったが、都合に依り私は一人旅行で東海道を行く事になった。旅贅は未だ旧藩の出張所員からくれたので、豊かでもないが、それで東海道の名所位は少しの廻り道をしても見物しようと思い定めた。頃は三月であったろう、東京を出発して、その時はもう人力車がどこにもあったから、一日の行程も以前よりは早くはかどって、大阪まで着いた。川止めなども旧藩時代の如く殊更らなことをせぬから何の滞りもなかったのである。それから可笑しいのは最初廻り道をしても、名所古跡を訪いたいと思ったのが、人力に乗って駈け出させては、そんな事をして時間を費すのが惜しくなって、何所一つ道寄りをせなかった。要するに、山水その他の見物は私の性質として余り好まない。俳句では随分、景色等の事も詠むが、多くは理想的に描くのである。こんな風だから、まだ俳句を始めぬその頃の私では、かく無風流に旅行して終った事も不思議はないのである。一つ記憶に残っているのは、大阪の或る宿へ着いた時、一番東京風を見せるつもりで、女中に二朱ばかりの祝儀を与えた。するとこの地ではそんな習慣がない所より、宿に居る女中が、後から後から出て来て、それにも遣らずには済まないから、大分散財をした事であった。海路はもう内海通いの汽船があったけれども、凡てが中国沿岸から、九州方面へ通航するばかりで、四国路は多度津の金比羅詣りに便する外どこへも寄らない。従ってわが郷里の三津の浜へは無論寄らないのだが、特に頼むとちょっと着けてはくれるという事を聞いたので、遂に何とか丸という船に便乗した。乗客も随分多くて、中には東京帰りの九州書生などもいて、詩吟や相撲甚句などを唄って随分騒しかった。三津の浜へ着いたのは、夜半であったが、私と今一人の客を艀《はしけ》へ乗せて、それが港内へまで廻るのが面倒だからといって、波止の石垣を外から登らせて追い上げられた。少し不平であったけれども、もともと特別の便乗なのだから仕方がない。その夜は三津の浜に一泊して翌日帰宅した。
 私の宅は以前の如く堀の内の士族邸だが、召使なども凡て暇をやって、家族で炊事もしている。父は最前もいった如く邸内の畠打をしていたが、その外綿繰りといって、実の交った綿を小さな器械を廻してそれを抜き、木綿糸を績《つむ》ぐ下地をする賃仕事がある、それをセッセとしていた。昨日まで家老に準ずる重職をしていたものが、そんな有様なのには、私も少し驚いた。聞いて見ると今の平均禄では、家内の喰う事がやっとである、そこで、東京から帰っている弟の大之丞にせめては洋学の修業を継続させたいと思って、幸まだ旧藩以来の先生が居るから、そこへ通わせる、月謝が月々旧藩札五十匁(今の二十五銭)要る、それをこの賃仕事でこしらえるのだといった。私もちょっと胸がつぶれたから、自分でも何か稼がねばならぬと決心した。以前にも度々いったが、父は名利に恬淡で
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