めた。なおこの卒を廃する際にも若干の一時手当を交付したのである。けれども俄かにかく解放せられたので、この卒団のものは、非常に憤怨して陰では散々当局者を罵っていたが、まさか反抗するほどの勇気もなかった。憤怨といえば、士族以上も門閥を失い家禄を奪われたのであるから、随分不平を唱えていたことは勿論である。要するに当時の藩庁はかような空気の中に孤立していたのであったが、大参事の鈴木重遠氏を始めが胆気もあって改革に熱心であったために、何ら顧慮する所なく諸事を断行した。尤も私はただ東京帰りの聞きかじり西洋通の青年であるから、さほど度胸もなく見識もなかったのだが、年の若いだけに別に心配もなく先輩に追随していた。殊に学校の改革は多少自分にも考えがあったから、老先生の眼前で突飛な改革をしてそれには多少得意と興味を持っていた。が、宅へ帰ると永年藩政に勤労して実験にも富んでいる父が控えているので、なんだか極りの悪い感じもあったが、父は藩政の改革に対しては一言もせず、かつ私をも咎めなかった。父は従来富貴功名には淡泊で、ただ昔気質な君に忠義を尽すという一点張りであったから、藩政の局に当っては人言をも顧みず信ずる所は熱心に努めたが、一旦時勢の変遷を看破して身を退いた以上は、忽ち洒々落々として少しも愚痴をいわない。申さば諦めがよい、これから後は貴様達でやりたい通りに遣れといったような風でいた。父は若い時、勝成公の君側に仕えた時分は、その御相手として多少読書もするし、詩なども作っていたが、それ以来忙しい職務となったので、それらも廃してしまった。しかるに最近閑散の身となったので、ぼつぼつ読書もするしまた詩を作る事も始めた。そうして、この詩だけは私にも示して批評を求めた。またその頃の邸地面はかなり広いが上に、隣地の空き邸を幾分貰い受けていたので、そこに畠を拓いて、父は自分で鍬を執り肥を蒔きなどして、そんな事で充分精神を慰めていた。
その頃東京では段々と脱刀とか散髪とかいう事が始まって、後には廃刀令というのも出たが、まだ最初は随意にやりたい者がやったので、その事が藩地へも知れたから、私は同僚の二、三と共に直に散髪になった。刀の方はその頃の事とて少し、用心もせねばならぬから一刀だけを帯ぶる事にした。この一刀も東京あたりでその頃流行したもので、これまでの大小の、大よりも少し短かくして、その飾りは、奢ったものは純金にし、次は純銀にした。私の同僚でも長屋氏は金があったから、東京へ出張して帰った時金刀を閃かしていたが、私は貧乏だから、やっと銀刀を造ってその真似をした。
この藩政改革に引続いて藩知事公新邸が出来た。これまで代々の藩主は三の丸に住まわれて、或る点においては公私混合という風であったが、朝廷からの命令で、藩主の暮し向きは、藩の収入十分の一を下附せらるるという事になり、その暮し向きの変更からも別に居宅を構えらるるの必要が生じて、即ち知事の官宅という姿でかような新邸が出来たのである。この新邸落成の祝宴には参事一同をも招き酒宴を開かれたが、以前は家老でさえも膝行して盃を賜わるという風であったのを、そんな虚礼はやめねばならぬといって、知事公と同席で盃の献酬などもして、酔いが回ると雑談もするので、君公に近侍の家職の人達などは、いささか眉を蹙めたが私などは反動的に随分平民主義の態度を執ったのが今から思えば可笑しい。
その少し以前藩庁の建っていた三の丸が焼けた。これは大賄所という支度を司る役所の引けた後小使部屋から出火したので、既に私どもは退庁していたが、聞くと直に馳け付けたけれど、火勢が盛んで消防どころか、殆ど何一つ出す事が出来なかった。それで松山藩創立以来の日記その他あらゆる重要な書類が悉皆焼けてしまったのは惜しかった。最近私どもが久松伯爵家から嘱托せられて、旧藩の事蹟を調べる時もこの焼失のため頗る不便を感じた。また藩知事公の居間も勿論焼けたので、一時二の丸の方へ転居せられ、間もなく前にいった新邸が出来てそこへ移られたのである。
この頃徳川慶喜公を始めその他一時朝敵の名を蒙り蟄居を命ぜられた藩主連も、寛典を蒙り平常に復して位さえ賜わる事になったので、前藩主の定昭公も同様の御沙汰を蒙られて、改めて従五位に叙せられた。そうして藩知事勝成公は余儀なき事情で再勤せられたのであるから、定昭公にしてかく平体に復せられた以上は、それに知事の職務を譲りたいと思われ、その筋へ出願の上、いよいよ勝成公は隠居せられて、定昭公が藩知事を拝命せらるる事になった。
この頃の事である、幕府時代から引続いて切支丹宗門は禁制であって、その信徒は厳刑に処する掟であったにもかかわらず、長崎地方にはこの信徒が絶えなかった。尤も王政維新の際、一時は神道派が勢力を得て仏教さえも廃せらるるかの噂さえあったほどだから、切支丹宗徒は無論厳罰にも処せらるべきであるが、既に外国と交際を開きその公使も来ているし、就中英国のパークスはこの信徒についても種々干渉するので、その取扱いさえ多少寛大にせねばならぬ事情となった。そうして少し以前長崎地方の切支丹信徒は或る藩々へ数十人ずつ分かち預けて、改宗の説諭をなさしめらるる事となり、我松山藩へも三十人ばかりの信徒を預かっていた。しかるに或る時朝廷からの御沙汰に中野外務権太丞がその藩へ出張するとの事で、間もなくその一行が到着したが、その用向きは、兼て預けてある切支丹信徒の事であった。しかるに、藩では、かつては厳刑に処せらるる位な者の事だから、凡てを獄屋へ入れ、男女も区別してあった。因てその事を答えると、さように過酷に扱ってはならぬといわれ、なお説諭方等の事も聞かれたが、実の処藩ではそんな事も余りにせないで、特別の掛員さえ設けてなかった。そこで俄に私へ学校係の外異宗徒取扱係という兼務を命ぜられた。そうして、権少属の和田昌孝氏史生の伊佐庭如夫氏にも同じ命があった。そこで、まず中野権太丞を案内して、獄屋において切支丹信徒の状態を見せた。この獄屋は城下外れの三津口にあって、やはり厳重な格子造りになっていたが、錠前を開けると、権太丞一行がまず這入って行く、そこで私等も這入ったが、獄屋は私には始めての事だから、頗る汚らわしく穢く思った。殊にこの信徒には、他の囚人よりは寛大にして少しの煮焚なども許していたから、その火気が充ちているので、一層臭気も甚だしかった。中野権太丞は、それらを見分した後、今後かような所へ置く事はならぬ、また一家の男女を分ち置くという事も悪いから、それを改めよとの事であった。因てこれらの信徒を置くために、城下外れでお築山という方面に卒の下等に属するお仲間という者を置いてあった棟割長屋があったのを他へ移して、そこへ信徒を住わして、一家は一戸ずつ同居させて、夫婦も子供も団欒させる事になった。子供はこれまでは女監の方に入れていたのである。そうしてこの信徒に或る一人はなんと思ったか早くより改宗したいと申し出たので、それだけは、獄屋以外に置いて特別に労っていたのであるが、この際同じ長屋続きに住う事になったので、その人が他の信徒に対して顔を合すのが極りの悪るそうな風をしていたのも可笑しい。これらは少し後の事で、中野権太丞は右の獄屋を検分した翌日自分にも説諭がしたい、また藩の役人達の説諭の様子も見たいとあったので、町会所という所へ信徒を呼び寄せ、庭へ筵《むしろ》を敷いて坐らせ、権太丞始め我々の藩吏は座敷やあるいは縁側に居並んだ。それからまず権太丞が信徒に向って説諭を始めた。随分厳正な態度で声を荒くして叱りつけるように言ったが、信徒の中の何とかいう頭だった一人が、何らの怖れ気もなく、答弁して、上帝や基督《キリスト》の威霊を主張し、貴君方の御役人がそれを信仰せられないのが、かえって不都合だというような事まで言いかけた。中野はそれを『黙れ』と一喝してやはり説諭を続けた。そうして別席へ退いて、私どもへいうには、今日かように烈しく言ったのは、わざと敵役に廻ったのであるから、藩の方々は、これに反して、温和に説諭さるるがよい、その方が利き目があろうと注意した。そこでこれから私が説諭せねばならぬのであるが、未だ書生上りの無経験者であるから、伊佐庭史生に代って遣ってもらった。この人は弁舌もよく、多少の心学道話などの心得もあったから、権太丞の注文通り温和で寛大なる態度を取り、色々と譬えなどを引いて、なかなか巧く説諭をした。この時も信徒の頭だっている某は随分抗弁もしたが、それも充分に聞き入れつつその心得違いである旨を申し聞け、結局互の言い白らけでその日は引かせたが、中野権太丞も頗る満足して、なお私どもに取扱方を注意して置いて藩地を出発した。けだし他の囚徒を預っている藩々へも赴かれたのであろう。何しろパークス公使の圧迫のためには、日本全国に建てられていたいわゆる三札の中の『切支丹邪宗門禁制之事』とあるのを、『切支丹禁制之事、邪宗門禁制之事』と二行に書き改められた位だから、右の如く宗徒の取扱を寛大にせらるる事になり、わざわざ外務の高等官が、諸藩を廻るという事になったのも不思議はない。そうして、これは後の話しだが、廃藩置県となった際、この信徒は石鐵《いしづち》県へ引継いで、それから間もなく朝廷より放免の御沙汰があって元の長崎地方へ帰されて、切支丹否基督教もいよいよ黙許の姿となってしまったのである。
この四年五月妻は長女を生み、順と名づけた。
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十四
これは昨年大改革の後の事で、父は従来の勤労の関係から、旧家老などに亜《つ》ぐ待遇を得て二等士となっていたが、突然知事家より伊勢の藤堂家へ使者に行く事を頼まれた。それは知事家奥向に或る事情があって、参事あたりよりも、それについて配慮した結果、定昭公の実家である藤堂家に諒解を求むる必要があったので、父は外交にも馴れているという事から、実は藩庁の推薦に出たものである。その往復は僅の日数で、帰って後の話しに藤堂家では頗る優待を受けて、漢学者で名を知られている土井※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙《どいごうが》氏やその他画家などを召されて、藤堂知事公も臨席して酒盃を取交わされたという事である。この伊勢から戻って間もなく父は隠居を願って、家督を私へ譲った。家督といっても以前なら、家禄があるのだが、この頃は最う士族一般が平均禄で、前にもいった、一家につき廿俵と家族一人につき一人半扶持とを先代の如くもらうのみである。尤も私は権少参事を勤めているから、この年俸は別に貰っていた。父は隠居と共に櫨陰と号して、それからはもっぱら詩を作りまた拙筆ながら書なども書いた。そうして常に文事の交りをしていたのは、漢学者では伊藤閑牛翁、医師では天岸静里氏などであった。
この頃東京の藩邸では、公用人が、もっぱら朝廷に対する用弁をしていたのだが、それの監督かたがた、大参事と少参事とが替り合って出張する事になった。そうして大参事は、正権共に公儀人の役目も持った。そこでその頃少参事の小林信近氏が東京へ出張したので、氏がその頃管理していた、刑法課を私が暫時代理した。即ち学校課の外にこの刑罰等に関する事務にも関係したのである。その頃の白洲というは罪人を訊問する処で、刑法課の属官が主任となり、その下に同心とか、手先とかが囚人を直接に取扱った。故に権少参事の私は、それを隙見をするのみであったが、その頃の事とて、罪ありと認めた者が容易く自白せぬ時は、拷問にかけた。拷問法も種々あったがまず軽いのは、灸を握りこぶしほどに大きくかためてそれを衣をまくった膝の上に置いて火を点し、漸々と燃え立っている火が下へ喰入って行く、そこで今に痛くなるぞと言って手先が脅す、囚人も最うたまらぬから、申上ます、申上ますというと、その灸を払い捨ててやる。けれども、強情なのは随分その大きな灸の火に苦痛を忍ぶものもあった。それから、鉄棒挟というがあって、鉄の二本の棒の一方を釘止めにしたその間へ足を挟んで上から締め付ける、すると骨まで挫けそうで痛いから罪人は白状する。あるいはその鉄棒挟みを衣を捲った膝の
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