る時の様子が詳しく記してあった。これはその子孫が後年建てたものらしい。右手の川を隔てて林中に鳥居が見えたが、これは義仲の社であるそうな。この川はいわゆる木曾川で、連日我ら一行と伴って右側を流れていて、折々は岩石に触れて白い泡を吐き、高い叫び声も聞かせていた。また珍らしく見たのは、既に三月の初旬(旧暦)であるに、梅が咲いている。そうしてまた桃も桜も咲いていて、百花ごっちゃまぜの景色である。そうかと思うと岩陰には残雪が白く残っていた。こんな事を漢詩などにも詠んで、木曾海道の主なる嶮岨もやっと終ったが、最後に十三峠というを越した時もかなりに疲れた。これは麓で、一行が酒を飲んだ元気で折からの月夜に乗じて越したのであったから、一人の人間にも逢わなかった。人間といえば、碓氷峠を越して以来連日旅客らしい者には一度も出逢わない、出逢うのはその土地の百姓位の者であった。一体明治の最初はまだ戦争も終らなかったので諸藩の往来も頻繁であったが、昨年函館の五稜郭が落去して後《の》ちは、諸藩の兵も各引揚げて、上下交々一と休息という場合で、藩士などの往来は全く絶えていたのである。そこで私等の一行が道々つまみ喰いでもして慰もうと思っても、駄菓子一つもない、昼飯を喰おうと思って立場へ来ても、客を見かけて、初めて飯を炊くというような風で、待ちどおしかった。道中記を調べると随分名物も記してあるが、そんな物も一切目に入らなかった。ただ福島駅辺りにいわゆるお六櫛店を見たばかり。それから信州が尽きて美濃に入っては、気候もいよいよ春の酣《たけなわ》なる様子となって、始めて普通の人間世界に出た気がした。ここらで珍らしく、両刀を帯びた侍の二、三に逢ったが、これは尾州藩の代官の手に属する人であった。このままで行けば、江州へ入って磨針峠《すりはりとうげ》を越えて京都へ入るのであるが、前にもいった通り伊勢参宮をしたいのであるから、太田の駅から船に乗って木曾川を下って、勢州まで行くことにした。船が少しこの駅を離れた頃から、川の水勢は俄に急となり左右に聳えている岩石に触れて急湍は白雪を散らしてその響も雷の如くたけっている。そこでその舟も常のと違って首尾ともに同じ形で、極めて薄い板で幅狭く造り、それを二人の船頭が各々首尾に立ち分かれ、竹竿を巧く使って、岩石をあちらこちらと縫うように避けて舟を下すのである。私等は最初はモウ岩石に触れるかと思って、冷々したが、竿の操りがなかなか巧いのでそんな虞れもない。遂には安心して折からの日和で日向ぼっこをして睡りに入った。この難所は三里余もあったそうだが、それから川幅も広く平流となって、何らの危険もなくなったと共に平凡な景色となった。ただ或る時犬山城が左岸に櫓や石垣を聳えさせているのが目を引いたのみであった。この日は桑名へ着してまた陸路を貪って四日市へ泊った。翌日は追分駅で、例の饅頭をたらふく喰って、これも少し腹を損じたが、これからいよいよ参宮道で周囲には菜種の花が満開である。季節柄田舎からの参宮者も多いので、数々の講中が伊勢音頭を唄いながら、男女うち混じて歩いている。かつては絵で見ていた、三宝荒神、即ち一匹の馬に左右へ炬燵櫓を逆さにしたようなものを付けて三人の女や子供が乗っているのを実際に見た。津の駅では、問屋の役人が私の藩主と津の藩主と親戚であるという事で特に叮嚀に扱ってくれたのがちょっと嬉しかった。山田へ着いた日直に外宮内宮を参拝して、妙見町に止宿したが、その晩奮発して、古市へ登楼した。しかし古市踊りは金がかかるので見ずに終った。翌日は雨が降ったのでやはり流連して、三日目に伊賀を経て奈良に達した。この道は伊賀越と阿保越の二つがあるが、路の便から阿保越を取ったので、例の仇討の古跡は見ずに終った。奈良では猿沢池の傍に止宿して、翌日、春日の社や大仏その他を見物した。猿沢の池畔の、采女の社が池の方を向いて背面に鳥居の建っているのもちょっと珍らしかった。鹿はうるさいほどそこらを歩いていた、若草山は折からの若草で青々としていたけれども登らずに終った。奈良を立って路順なら直に大阪へ行くのであるが、ついでに京都も見たいという者があるので、伏見から道を転じて京都へ入って、三条橋畔の宿屋へ投じた。その翌日は祇園、清水、智恩院大仏、東福寺等を見物した。その頃の高倉の藩邸には留守居を改めて邸監といって、佐治斎宮氏というが住んでいたので、そこへも往って面会したが、我々は東京で文明の新空気を吸っているという誇りから、大気焔を吐いたので、先輩ではあれど彼れは驚いて沈黙していた。それから大阪へ下って、ここの邸監は皆川武太夫氏がいたが、ここでも気焔を吐いた末、一行には最《も》う旅費が尽きていたので、各々旅費の借用を申込んだので、皆川氏は少し渋面作ったが終にいくばくかを流用してくれた。大阪の見物はそこそこに済まして、いよいよ藩船の便で海路は別段の事もなく松山へ帰着した。それからというものは、誰れに向っても例の文明談の気焔を吐き散らした。といって実際どれだけの事を知っているかというに、まず福沢諭吉翁の西洋事情三冊を読んだ位で、その他は江戸が東京となって以来多少の変化した状態を目撃したというだけである。されど藩地のみに蟄居していた者と比ぶればこれでもなかなかの新智識であったのだ。最近の詞でいえば、我々はハイカラである。ハイカラといっても今頃の青年よりは一層突飛な西洋崇拝で、日本の旧来のものは何事も陳腐因循だとして、一も二も西洋でなければならぬという主張であったのが可笑しい。私も今でこそ今日のハイカラ達を譏《そし》りもし警《いまし》めもするが、以前の私のハイカラは今日の人々よりも数倍のハイカラで、このハイカラ熱からいえば今の若い人々はまだまだ沈着しているのだ。そこで私どもの意見では、松山藩が維新の際に失敗したような事を再び繰り返してはならない、なんでも時勢に適応して、大いに藩力を振わねばならない、それには武備の振興が第一だといって、私は平士上隊でいるから、まず軍隊の調練に熱心に従事した。この頃の藩の軍隊は、蘭式を改めて英式となしていて、士分から卒に至るまで一様に従事させていた。けれどもいずれも熱心がない。それもそのはず、隊長たる者はやはり従来の家柄の老人や半老人で、号令のかけ方さえ、自分にも判らないから、その日のかけ声を扇子へ記して置いて、それを窃に読みながら進退を指揮するという風だから、隊兵の方からも充分馬鹿にしており、従って進退駈引等に号令が懸ってもぐずぐずしていたから、あるいは右向けといって、左向くやら、止れといってもまだ進むというような、不規則至極なものであった。私はそれを見て頗る憤慨したから、同じ隊中に立っても自分だけは本気にやっていた。今も記憶しているが、隣りに居た、背の低い某氏が号令を聞き誤って向きを違えた際、鉄砲を私の頬へ打ち付けたのでなかなか痛かった。そうしてこの頃の服装はやはり袴の股立ちを取って、尻割羽織を着て、頭には塗り笠を頂き、腰には両刀を佩びていた。私はこんな体裁ではいかんと思って、洋服一着を買って、それで出るつもりでいたが、まだ着ないうちに改革があって藩政に参与する事になった。この明治三年は朝廷から再度の藩制の改革があって、これまでの大少参事の外、大属少属、史生、庁掌、を置かれて、なお、藩知事の職権も制限せられ、或る事件以上は一々朝廷の指揮を仰がねばならぬという事になった。そこで、藩政もこれに準じて大改革を行わねばならぬという事になって、それには、私の父などはモウ局に当る気がないので、辞職する事になり、その他門閥家なども、文武両職とも段々と辞職する事になった。そうして引続き大参事でいたのは菅良弼氏鈴木重遠氏の二人、それへ新に抜擢されたのは山本忠彰と菅伝氏が権大参事、小林信近氏と長屋忠明氏が少参事、それから野中久徴氏東条○○氏と私が権少参事になった。以上の参事がまず藩政の内閣のようなものである。それ以下の大少属が、庶務、会計、治農、軍務、刑法、学校というように分科して事務を扱ったのだ。尤も少参事は正権共に一般の藩政に関係しつつ、また右にいった分科を主管する事になっていた。そこで、小林は会計、長屋は治農、野中は刑法、東条は軍務、私は学校を引受ける事になったので、藩の学政は思う存分に改革する機会を得た。予てのハイカラ病はいよいよ発作して従来の学規も教則もまた教官連をも凡てを廃止した。かつてもいった如く、藩学校の明教館は文政の頃我藩の名君定通公が創始せられたもので、学則の第一に『学は程朱に従ふべき事』とあったのだが、私はそれを取り除けて東京の大学の学規の『道の体たるや物として在らざるなく、時として存せざるなし』云々の文を掲げて、学科は普通科、皇典科、洋典科、医療科、算数科というを置いて、その普通科が実は漢学を主として日本の在来の漢籍やその他西洋の翻訳書等を教授させたのである。そうして、以前私どもが教えを受けた、老先生は凡てを免黜《めんちゅつ》して、比較的年の若くて多少西洋の話しも判りそうな者だけを教官に残し、その他は、私の同年輩あるいはそれ以下の聞かじりのハイカラ書生などを用いた。尤も皇典科は藩地で多少それを研究していた神官連を用い、医療科は医者のいくらか学理を心得ているものを用い、算数科も藩地でも名を取っている数学者を用いた。それから洋典科は藩地では人を得られぬので、その頃は慶応義塾が多くの洋学生を養成していたから、そこへ懸合って稲垣銀治氏というを雇った。その後尚銀治氏の紹介で稲葉犀五郎、中村田吉両氏も雇った。尤も稲垣氏でさえ慶応義塾でピネオの文典とか、カッケンポスの万国史とかミッチェルの地理書とかいう位のものを読んだくらいのもので、発音は凡ていわゆる変則読みであった。それから、普通科においても、経書や歴史は以前のものを用いたが、その他西洋物ではやはり西洋事情を第一として、上海出版の博物新編、地球説略、などを用いた。こんなものが藩学校で教えられるので、旧来の先生連は一同顰蹙していたけれども、さすがに何ともいわなかった。また軍隊ではその頃は英式よりも仏式の方がよいという事になったので、特に東京から、武蔵知安氏とその門人の五、六名を聘傭して訓練させた。この武蔵氏一行は、函館の五稜郭に立籠って実戦の経験のある人なので、本名は隠していたがなかなか江戸子気性でテキパキと物をいうし、軍隊に対しても用捨なく叱り付けて訓練していた。そうして一般から見ても当時の藩政の当局者はまず武張った者が多いので、もし命令に違えばどんな厳罰に処せられるかも知れぬという恐れがあったから、他より来た教師であるにかかわらず、よく柔順に服従していた。因てここに始めて我藩にも軍隊らしきものが出来かかったのだ。またその頃は騎馬隊といった騎兵の事に達している何とかいう人を聘用して一小隊位の騎兵をして教練せしめた。凡ての藩兵で仏式に編成するとまず一大隊位のものが出来たので、その上長官を少佐と呼んで、それには、私と同務であった、東条氏が自ら好んで任ぜられた。そうして、その代りに村上質氏が入って来た。この人はなかなか才物で軍政上や武蔵氏の応接等も巧くやっていたようである。これらは多く明治四年の事で、今回の大改革を決行したのは前年の閏十月であった。その大要をいえば、従来の門閥を悉く廃止し、最近の位置の等差に依って、一等士から十等士までの待遇を与え、従来の士分と徒士と、これに准ずる十五人組とを一般に士族と呼び、士分以上を旧士族、それ以下を新士族と分けた。旧士族は一家に付二十俵と、家族一人に付一人半扶持を与え、新士族は一家に付十俵家族一人に付一人扶持を与えた。従って三千石の家老も、九石三人扶持という最下等の士も、士分は同じ収入となったのであるから、随分一同を驚ろかせた。尤もその際一時に一箇年分の家禄は等差に応じて特別に渡したのである。それから今いった十五人組以下の無格、持筒、足軽、仲間の四段の卒は凡て暇を出した。そうして、その需用に応じて、新たに使用する者をやはり卒と称し、軍隊にもまた通常の事務にも従事せし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