江戸から持帰った錦絵や番附でよく知っていて何だか見ずと贔負に思っていたのであるから、実は他の座よりも守田屋を見る事を藤野氏にも勧めたのであった。尤もその時の田之助は、既に脱疽に罹り横浜の医師のヘボンに片足を切ってもらっていたのだが、うまく他の片足を使って芸をして、何とかいった河竹作物の傾城遠山と飛高川の清姫を勤めた。訥升の安珍や左団次の悪僧剛寂などもまだ目に残っている。
 こんな見物ばかりしちゃいられない、いよいよ昌平学校へ入らねばならぬのだからその手続をしてもらって、間もなく許可されて学生となり入寮した。京都より同行の薩州その他の書生も前後して入寮したので、これら知っている顔とは朝夕打寄って話などもするから別に心細くもなかった。この昌平学校へ段々入って来た寮生でその後世間に知られている人を少しばかり挙げると前にもいったが、薩州藩では黒岡帯刀氏長崎省吾氏の外、川島醇氏西徳次郎氏山本権兵衛氏、大村藩では岩崎小次郎氏、肥前藩では松田正久氏中島盛有氏(当時土山藤次郎)、土州では谷新助氏奥宮正治氏、中村藩では相馬永胤氏、久留米藩では高橋二郎氏、富山藩では磯部四郎氏、高鍋藩では堤長発氏、処士では色川圀士氏村岡良弼氏などである。なお公家の子弟に八氏大名の子弟にも八氏あった。それから私の知っている所で、文章家では肥前藩の於保武十氏中村藩の藤田九万氏、詩家では小田原藩の村上珍休氏などであった。この頃はいずれの藩からも昌平学校が開けたというので、入寮生が頻りにふえる。そこで、幕府以来の旧寮の外にまた新寮が出来て、前後の通計では入寮生が四百人以上にもなったと聞いている。かく多人数が居るにかかわらず、余り勉強はせない。その頃の教官は漢学では水本先生の一等教授の外吉野立蔵氏が二等教授私の藩の藤野正啓氏が三等教授、国学では平田|鉄胤《かねたね》氏が一等教授、矢野玄道氏が二等教授木村正辞氏が三等教授であった。間もなく官制を改められて、太政官その他の諸省が出来たので、昌平学校は大学本校となり、開成学校が大学南校医学校が大学東校となって、教員の職名も改正せられた。そこで水本先生と平田鉄胤氏とは大博士、吉野立蔵氏矢野玄道氏外に青山廷光氏川田剛氏が中博士、藤野正啓氏、岡松辰氏が少博士、これが漢学科、また木村正辞氏その他数氏が中少博士になってこれが国学科、なお大中少の助教があって、漢学では亀谷行蔵氏川崎魯輔氏が大助教塩谷修輔氏岡千仭氏が中助教、また井上頼国氏が中助教であったのだが、多分国学科であったろうか、その他も国学では数々あったが十分に知らない。尤も肥後藩の生駒新太郎氏は最初大寮長で、後に少助教へ転任したのだが、経学家であったから私は心安くしていた。なお少寮長の仙台藩の遠藤温氏と心安くしていた。間もなく私等の数名も経義質問係というを申付けられたが、その頃の事であるから誰も質問に来る者は無いので全く空名であった。それもそのはず博士あたりの講義をせらるる時さえも出席する者は僅の人数であった。実は私も国学の講義で木村正辞氏の古事記を一回聴いたのと、生駒新太郎氏の経書の輪講へ二回ばかり出席したのみであった。しかし私は生来読書が好きだから、他の者よりは勉強して、常に自室に籠って読書をした。書籍は旧来の昌平塾在来のものの外、幕府の紅葉山文庫の蔵書がこの大学に交付されていたから、それを借覧することが出来るので頗る都合がよかった。中には唐本の表紙の裏はベタ金になっているのもあった。これは将軍の座右へも行ったものであろうと思われた。私は藩地の明教館にあった頃漢文では例の紀事といったものはかなり書いていてこれは先生達にも褒められたので、自分にも漢文は出来ると思っていたが、その後御小姓を勤めたり、旅行などしたので、それらの事も全く廃していた。そこで、この大学へ入ったから漢文を書いて見たいと思い筆を執ったが一向に書けない。寮中の先輩に就いて相談すると蘇東坡の文を熟読したらよかろうというので、まず八大家文の東坡の所を頻りと読んで、中には数篇暗誦することも出来た。そうして筆を執って東坡の口真似見たような論文なども書いて見たが、自ら見てさえうまくない。それでも幾つかは書いたのが今も少々残っているが、私は生来文章は不得手なのであった。詩は理窟めいたことばかりいったとしても、それを作る才はあるので、今日は俳句の標準から稀に詩も作って見るが、昔よりは何ほどか詩らしいものが出来る。尤も漢文でも、多年多くのそれを読んでいるから、他人の作は何ほどかわかるが、自分ではもういよいよ気が挫けて二行三行のものさえ書けない。仮名交りの漢文でさえもやはりむつかしい。しかるに最近は口語体の文章が一般に流行するので、それはいつの間にか書き覚えて、今ではどうかこうか、自分の意志を現わし、また人と討論することも出来るようになった。
 その頃の在寮生中にも全く勉強家がないのでもない。私の寮の近傍に居たものでは、前にいった藤田九万氏高橋二郎氏などは随分勉強していたようだ。また文章家の於保武十氏とか詩人で村上珍休氏等とも往来してよく話し合った。また岩崎小次郎氏は大村の藩兵に加って奥羽から帰りだちというので、なかなかの元気で、誰かの書いた和文のナポレオン伝を高声に読んでいたのが今も耳に残っている。また高知の雨宮真澄氏谷新助氏等は随分乱暴家であって、就中谷氏は短刀を抜いて少年を脅迫したことなどもあった。その他戦争戻りの人も少なくなかったが、就中薩州人が多くて、それは皆散髪であったから頗る目に立った。何とかいった人は片腕を失っていた。要するに戦争上りのことでもあるから、人気は一般に荒っぽく、不羈卓犖《ふきたくらく》というようなことを尚《たっと》ぶので、それだけ勉強するものは因循党と見做された。一体に多くの学生は昼間は外出して、懐の有無により大小の料理屋へ行って酒を飲み芸者を呼ぶ。また吉原や深川や品川へ登楼もする。そうして帰って来て気焔を揚げるのが誇りという風であった。私の入寮後間もなく、藩地の明教館の学友が上京してここへ入ることになった。それは由井弁三郎氏錦織左馬太郎氏杉浦真一郎氏山川八弥氏の四人で、以前の知人の外更にこれらの人を得たので、それからは多くこの同郷人と諸方へ出掛けることになった。が、私は他の人の如く多くの酒も飲まぬから、料理屋へ行くとか登楼するとかいうことは、附合いなら別段、自動的には余りせなかった。それよりも芝居を見るのが何よりも楽みで猿若の三ヶ町即ち中村座、市村屋、守田座の変り目変り目には必ず行った。尤も書生の懐だから奢ったことは出来ないが、それでもその頃は、桟敷は勿論土間でも茶屋にかからねば這入ることが出来ぬのだから、茶屋にも馴染が出来てそこから行った。そうして土間の割座でもカ、ベ、スの三品はその頃でも買わねばならぬのだから、それを買って土間の一人分と合せて、一分二朱位を払った。その頃われわれの藩から貰う給費は金十両であったが、太政官札が低れて[#「低れて」はママ]いたから、この札にすると十二両となるので、まず芝居だけは十分に見物することが出来た。また父からも時々送金してくれるので、私は寮生中でもまず懐の好い方であった。
 芝居では中村座の座頭が以前市村羽左衛門といった尾上菊五郎、立女形が坂東三津五郎、書出は忘れた。市村座の座頭は後に市川の九代目となった河原崎権之助、立女形は後に半四郎を継いだ岩井紫若、ここも書出は忘れた。守田座は前にいった通り。それから中村芝翫とか坂東彦三郎とかは、あちらこちらと助けに来て、これは特待の中軸になっていた。なお中村宗十郎とか、大谷友右衛門とか中村翫雀とか、東京へ来ては同姓名のあるのを避けた高砂屋福助なども、絶えず大阪から来て、これは客座に名を出していた。この年の七月であった、沢村田之助は久しく引籠っていたのが珍しく出勤したが、もう両足とも切っていたので、痛みを忍びながら寝たまま三勝半七の三勝が病中の所だとして、左団次の半七を相手に一幕だけ顔を見せた。その後またまた引籠ってしまった。その頃の芝居は随分舞台で猥褻な情態をして、それで見物の興を引く弊もあったが、その筋からも何らの干渉をせなかった。一体に、戦争上りで努めて人心を温和に導くという政策ででもあったのか、太政大臣の三条公さえも、維新の最初は吉原の金瓶楼あたりへ通われたという話しもあった。また山内容堂公は殊に頗る遊蕩を試みられたが、これは維新の際の或る不平を漏らされたものらしい。その他各藩の公議人とか公用人とかいうものは、互に交際と称し公然と遊蕩したものである。また高下にかかわらず官吏は今まで下層の生活をしていたものが俄に多くの月給を取るので、総てが奢り散らしたものである。もう百両前後の月給を取る内には、書生の二、三人を置き学資を給して学問をさせていた位である。
 この明治二年に諸藩一同は版籍の奉還という事になって、旧藩主は改めて知事を命ぜられ、執政参政等を大少参事としてなお正権の等差があった。そこで私の父も松山藩権大参事となり、これらと共に藩政にも改革が行われ、その結果私も小姓の役が解けて、干城隊(後に平士上隊と改名)に入ることとなった。尤も留学の命はそのままなのだ。それからこの頃弟の薬丸へ養子へ行っている大之丞が、大学南校の貢進生として藩地より出て来たので、時々昌平寮へも来て面会した。また芝居見物にも随分伴った。
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   十三

 前にいったような次第で、私は多少見ぬ書も渉猟して勉強もしたが、わざわざ東京の大学に来ているというほどの益もなく、一面には芝居の見物やその他で遊び散らしているという風であった。そこで同郷の学友中にも、こんな事をして日を消しているのは無益だという説が起って、藩の出張員に向って、いっそ学問修業の命をやめて帰藩させてもらいたいといい出し、その許可を得ていよいよ東京を出発する事になった。尤も錦織左馬太郎は、先へ帰ったので、残っている由井弁三郎、山川八弥、杉浦慎一郎と共に私は三月朔日に東京を出発する事になった。そうしてこの帰途は東海道も陳腐だから、木曾海道を通って、それから伊勢参宮や奈良見物をして見ようといい合ったので、発足の日は板橋駅に泊り、それから段々と予定の道中をした。まだ記憶に残っているのは、妙義山が左り手に当って突兀と聳えていた事と、碓氷《うすい》峠を上るのに急坂でなかなか骨の折れた事などである。この峠を登る時、牛曳きが皆子供で、一人が十頭余の牛を追い立てつつ下って来る、その頃の事であるから路巾は狭く、最初はなんだか角で突かれそうで怖かったが、別段な事もなく峠へ達した。峠の茶屋では力餅というを売っている、私等の一行もそれを喰って力を得た。浅間山の麓をめぐる時はそのあたりが渺々たる曠原で、かつて噴火した時の大岩石がそこにもここにも転がっている、仰いでその頂を見ると一抹の烟が空に漂っている、その光景をちょっと珍らしく思った。それから随分疲れたのは和田峠を越える時で、別に急坂ではないが爪先上りの登り道が長いので一行も段々とへたばった。峠に立て場があって、赤飯を売っている、それを疲れた余りたらふく喰って少し腹を痛めた。この立て場は往年筑波山の落人で有名なる藤田小四郎が休息して、『将軍酔臥未全醒』、と詠じて壁に記したとの言伝えがあるが、それは後に聞いたので、私は見ずにしまった。それからこの峠を下ると諏訪である。温泉もあるが入らずに通った。ただ諏訪湖の向うに富士のうしろ姿を眺めた景色は今も目に残っている。それから或る駅に泊った時夕飯の菜に、丸く小さい二寸ばかりのものを幾個か皿に盛って出した。ちょっと見てなんだか判らん、かつて聞く所では、木曾の山中の人は蛇を喰うというから、この丸い長いものもあるいは蛇の付焼きではなかろうかと思って、私ども一行は互に顔を見合わせて箸を付け得なかった。そこで給仕の女に聞いて見ると、なんの事だ、チクワであった。喰っては豆腐だか何だか判らぬような味だが、これでも木曾山中では珍味としていたものらしい。宮越駅辺には路傍に旭将軍義仲の碑が建っていて、その兵を挙ぐ
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