の命を受けた。そこで出発の際それを先へ立てて、北の城門を出ようとすると、忽ち番所の詰合の者が下座と呼んで一同で平伏するのみならず、常には閉じてある大扉を左右に開いて私どもを通した。これは徳川時代に御判物に対する礼式で今もそれを遣ったのだが、私は初めてこんな待遇に遇ったので、少々面喰ったが、また意気揚々たる感じもした。この旅行は別条もなくて京都へ達し、まず御判物を出張の藩吏へ渡して、私は従弟の山本新三郎の旅宿へ同寓した。当時、藩主勝成公は本領安堵の御礼として、上京されていて、山本は目付となっていたが、これも諸藩一定の職制を定められて公議人公用人という、その公用人をも兼ねていた。この役はもっぱら朝廷向やまた各藩に往来して、藩の朝廷に対する公務を弁ずる者である。そうして段々と山本の話を聞くと、私のこの度経学修業として京都へ来ることになったのは、他の一面には、諸藩の情勢にも注意して何か変った事があれば藩の当局へ報知することをも心得ていねばならぬのであった。そこでそれの便宜を得るには、勤王藩の首たる薩州邸へ入込むのがよいというので、幸にその邸内に水本保太郎というが漢学塾を開いていて、それは我藩の藤野立馬と昌平塾の同窓であるし、また山本もこの頃はそこへしばしば往来して親しくなっているから、それへ既に頼んだということで、私はいよいよこの水本塾へ入ることになった。この山本の旅宿は京都の東北の吉田神社の傍で、藩主の本陣は真如堂であったから、私もあちこち往来して、また藩主にも拝謁することを得た。そうしてこの度入るべき薩州邸は相国寺に隣してかなり広い建物であった。
 私は薩州邸の水本塾へ入ったが、同塾生は過半薩州人で、他に高松藩とか、鯖江藩とか、肥前鹿島藩とかの人もいた。塾長は小牧善次郎で、後昌業といって、現今は御侍講を勤めて誰れも知る人だ。また宮内省で久しく要路に居た長崎省吾も当時は助八郎といっていた。また海軍中将だかにまで進んだ黒岡帯刀もいた。塾生で漢学の力ある人では、右の小牧は勿論白男川勇次郎というがあり、詩をよくする方では、伊地知とか吉国とかいう人もあって、私も親しくなるにつれて応酬をした。この時代の事であるから、塾生一同はあまり勉強をしない。多くはよそで酒を飲んで帰って来て大声で吟声を発しまた時世論をする。それから夜更けて戻った者が、既に寝ている者を起して、雑炊会を始める。それは賄《まかない》を呼起して残飯を大鍋へ叩き込んで、それへ葱大根などを切交えて、それを啜り合うのである。酒は欲しいけれども多く得られなかった。そんな事で夜中もガヤガヤ騒ぐが、水本先生は少しも叱らなかった。また一定の教授時間があるというでもなく、時々書生を呼集めて、粗末な肴ながらも酒を振舞う。先生ももとより酒好きであったから、塾生等も何ら憚ることなく酒を飲んだ。私は藩地を出るまでは全くの下戸でツイ三杯も飲めばもう嘔吐するという位であったのだが、この塾生の多数に感化されて、いつの間にか飲み覚え、一合位は傾けることになった。尤もこうして自分も多少の気焔を吐かねば、他の人々と共に同塾が出来ないからである。しかし感心なことには、薩摩人はいい合わしたように他藩人に対すれば頗る温和に接して少しも圧迫することなく、むしろ懐柔しようという風であった。そこで私も別に居苦しきこともなく、また学力や詩才だけは段々と認められることにもなったから、日々面白く暮していた。
 一体牛肉を食うということは昔は無かったので、江戸でこそ輓近《ばんきん》西洋通の人は多少食ってもいたが、京都ではまだ四ツ足だといって汚らわしいものとしていた。しかるに薩州人はこの牛肉を好み食ったので、それを売る者が邸前へ幾所にも蓆《むしろ》を布《し》いて切売をしていた、これは皆穢多である。その他鴨川の川原でもそこここに葦簀囲いの牛肉販売店があった。これも薩州人を始め諸藩の荒武者を得意としていたのである。なおこの穢多の住居であるが、西京にも似ず三条の橋を東へ渡ると、大通のじき裏町に穢多町というがあった。そこでは既に牛鍋を食わす店があって、飯でも酒でも売っていた。この事は水本塾の人々の話にも上ったが、誰一人まだ穢多町へ行って牛鍋をつつこうという者はなかった。そこで私は夙よりハイカラになっていて、穢多も同じ人間だと理解していたから一ツこの穢多町の牛鍋を食って来て、薩摩隼人を驚かしてやろうと、或る日単身でそこへ行ったが、随分狭くて汚ない家であったけれども我慢して坐り込んで、牛鍋を命じなお酒や飯を命じた。そうして食っては見たが、実の処穢多の家だと思うと胸の工合がよくないが、ここが辛抱だと思い、酒力を借りて肉も二鍋、飯も二、三椀はやった。そこで水本塾へ帰って来て、今日はかくかくの事をした、これから諸君とも同行しようといったが誰も応じる者が無かったので、私は珍らしく同塾生をやっつけたのである。
 水本先生は酒を飲むから酒楼に行くことも度々で、酔って帰ることも多かったが、また塾生を同行することもあった。それは多く三本木の月波楼とかいうので、私も連れられて行って、いわゆる三本木芸子にも出合った。この頃私は七言律詩を二十ばかりも作って、紅楼の興味や何かを聞かじり半分に詠って、小牧始めの同塾生にも示し、また我藩の山本とか、医者で詩をよくした天岸桝玄などにも見せた。これがそもそも私の漢詩で多少の艶態を詠った始めである。
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   十二

[#天から2字下げ]段々と話が今日現存の人にも及ぶから今回より人名には多く敬語を加えることにした。
 私は久しぶりで京都に来たのであるから、常に好きな芝居を見ることも楽んでいた一ツである。そこで折節四条の南座が芝居をやっているので、或る日行って見たが、生憎《あいにく》一等役者ではなく二等位の浅尾浅十郎が座頭に片岡松若が若手の花形、それに中村駒之助が客座で加っていた。『新薄雪物語』の三人笑いやテボの正宗その他を打通しの出し物で、とにかく久しぶりの上方芝居だから面白く見て、二度までも行った。翌明治二年の正月のこの南座は歌舞伎でなくて照葉《てりは》狂言に替って、少し失望はしたが、こんな物は始めてなのでちょっと面白く見物した。
 ちょっと一事余計な話しを挟んで置くのだが、この頃水本塾へ時々遊びに来る人に矢沢某氏というがあって、薩州での旧水本門人らしいが、その後奥羽征討軍の参謀部に従事してそれも今は解任せられていた。この人は最も詩才に富んでかつて桜を詠じたものに『薄命能延旬日命納言姓氏冒斯花、云云』の七律を作って同塾でも称賛を得たそうだ。しかるに輓近琵琶歌にこの詩を入れて作者は新井白石だといっている。これは白石の雪の詩の七律と間違ったもので、その体裁が全く同様なからである。尤も矢沢の桜の詩も無論それに倣ったには相違ない。
 新年早々東京では旧幕府の諸学校を再興されて、漢学専門の昌平塾を昌平学校と称してそれに国学を併せて教授する校舎が出来た。その他以前の開成所を開成学校と称して洋学を教授し、医学所を医学校と称して医学を教授する所となった。そこで水本先生は、昌平学校の一等教授を朝廷から命ぜられて、俄に東京へ行かるることになったので、われわれどもは頗る失望した。尤もその代りとして重野安繹《しげのやすつぐ》先生が来られたのであるが、やはり水本の方を慕うが上に、東京の見物もしたいという希望もあるので、薩藩人を始め、他の藩々の人もイッソ水本の教授せらるる昌平学校へ行こうということになった。私も山本公用人にこれを相談して許可を受けたから、他の学生と共に東京へ行くことになった。尤も水本先生は少し先へ出発されるので、走り井の茶屋まで一同が送って行ったが、先生に兼て馴染の三本木芸子なども数人送って来て、酒宴が開かれてなかなか賑かであった。それから見送りがすんで相国寺へ帰る途中寺町を通ったが、ある場所であちらこちらと人立ちがして何だかつぶやいていて変であったので聞いて見ると、今横井平四郎氏が誰とも知れぬ者に殺されたということなので、もう死骸は勿論血なども見えていなかったが、有名な人の凶事にわれわれも驚いた。
 京都の話しはまずこれだけで、われわれもいよいよ東京へ出発することになったが、同行者は多く薩州人で、他に一、二の他藩人もいた。而して塾長の小牧善次郎氏はこれも史官を拝命して陛下の御東幸に供奉することになったので、あとの塾は重野先生と三、四の学生のみが残ってガランと淋しくなった。私は安政年間十一歳で藩地へ帰った以来、再び見る江戸否東京であるから一入《ひとしお》勇ましく旅行したが、その頃はまだ幕府時代のままで、五十三駅の駅々には問屋があって、それに掛合って馬や駕や人足も出してもらった。尤も書生のことであるから多くは歩いて、よくよく疲れると荷馬の空鞍へ乗って聊か助かる位であった。が、予て私は健足だから、別に苦しくもなかった。宿屋は一行の大勢で泊り込むので、相変らず酒を飲んで雑談に夜を更かしなかなか面白かった。一つ記憶に残っているのは、何処の宿であったか忘れたが、朝早く店先で宿の女房などが騒ぐ声がする、私は何心なく行って見ると、抜身の手槍を持った侍が突立っていて、宿の女房は『ここは薩州様のお宿であります。』と繰返し言っていた。なお私の外にも同行者が段々起きて来て、そこへ列《なら》んだので、右の侍はそのまま帰って行った。聞いて見るとそれは久留米藩の侍で、それらの数人がこの駅へ泊って、出立の際問屋の応接のしぶりが悪かったか何かで、例の気荒な九州武士の感情に障り、直ちに抜刀したから、問屋の役人は皆逃げ出した、それをあちらこちらと追掛けて、そこで私等の宿へも捜索に来たのであった。けれども薩州人が泊っている上に数人の若人が出て来たので先方も穏かに引取ったのであるらしい。また或る日川越しをする時であったが、旅客の多勢が集っていてその荷物なども容易に舟に積んでくれない。旅客は頻《しきり》にあせっている。そこへ或る老人の渡場の差図役が来たが、私の荷物に松山藩と記してあるのを見ると、忽ち「松山様だ、先へ早う。」と呼んで、誰よりも先へ私の荷物を運んでくれた。王政となった今日、松山も何もないのだが、徳川時代の御親藩たる威勢が老人の頭には残っていたと見えて、それには私も頗る今昔の感慨を起したことであった。
 東京へ着した晩は、二本榎の水本先生の母人の家へ他の薩州の人々と共に泊めてもらった。朝起きて見ると、もうその母人は大勢の男女の教場に臨んで、手習の指南や、漢籍の素読を高声に授けていられた。聞く所では水本先生はその尊父の代から江戸の漢学者で、その配遇も女ながらに漢学を修めていられた。その後尊父は亡くなられ、先生は薩州藩に聘用せられて、遂に鹿児島へ行って藩校の漢学の指導をせられていた。そうしてこの母人はやはり江戸に残って、そのまま家塾で幼年男女の教授をせられていたのであるそうな。一見してもなかなか気丈な婆さんだと見えた。その日水本先生はその頃有名な古川端の狐鰻へ学問上の或る知人を招かるるので、私どもにも同行せよとのことで、そこへ行って御馳走になった。客人は肥前人であったが、席上で七言律詩を作って先生に示した。先生は直ちに次韻して唐紙へ揮毫せられた。そして私へも次韻せよとの事であったが、少し臆したのか出来ずと了った。
 その頃我が藩の屋敷は、愛宕下の方の上屋敷は朝敵となった際に没収されたまま返されず、別に小石川見附内の高松の中屋敷を代りに下さった。しかし三田の中屋敷は元の如く下されたのでそこに留守居役や公儀人公用人なども住んでいた。公儀人は藤野正啓氏(海南)、公用人は梯渡氏、留守居は佃杢氏であった。私は藤野氏の寓所へ行って著京を届けて、そのまま泊めてもらった。私は東京へ来ればまず芝居が見たいので、その事を話すと、藤野氏もちょうど見たいと思っている所だと言われて、翌日猿若三丁目の守田座を見物することになった。この座の座頭は沢村|訥升《とつしょう》、立女形は弟の田之助、書出《かきだし》は市川左団次であった。田之助は私が藩地にいる頃より継母方の伯母の山本が
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