これは今も世間に知れていないだろうが、私は後年その鈴木より直接に聞いた所である。また事理から推しても、前にいった如く新藩主から決心を宣告せられたのみならず、家老鈴木等は籠城派の筆頭であるのだから、俄に恭順態度に変じたるには右の土州藩の勧誘位が是非ともなくてはならぬのである。
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   十一

 いよいよわが藩が土州に向って恭順を表した上は、新藩主及び前藩主は、松山城北の常真寺へ退居して、謹慎せられ、土州軍総督の深尾左馬之助は軍隊を率いて松山城の三の丸へ入込んだ。そうして藩主の代理たる家老その他の役人で、城郭軍器また凡ての土地人民を、土州に差出すことになった。そこで私の宅は堀の内といって、この三の丸近傍にも多くの士族屋敷があった、その一に住んでいたから、他の人々と共に立退きをせねばならぬことになって、二番町というに継母の里の春日が住んでいたから、それへ同居する事になった。この藩主が立退かれた際だが、前にもいった過激党はまだ憤慨の気が納まらず、松山城で反抗することは出来ないまでも、遠く江戸に居る会桑軍に投じて、共に薩長と戦おうという考で、それには新藩主を擁立し同志者と共に海路江戸へ廻ろうということに内決していた。すると一方の恭順派はそれを知ったので、さような事があっては折角土州の勧誘に応じた詮もない、つまり藩の存亡にも拘るから、あくまで反対党を阻止せねばならぬ、それには遂に兵器に訴えてもよいとこれも内々準備していた。尤も過激党の江戸脱走は、藩に一隻の汽船があったから、それに乗込む考であったのだがちょうど長州軍が船で三津浜まで来たので、その汽船も分捕せられてしまった。依てこの脱走も挫折して事止みとなったが、その後、徳川家初め他の藩々も段々と恭順を表された形勢からいえば、これは我藩に取っては幸であったのだ。
 土州軍は前にもいった如き、内々の好意もあって、形式的にこそ我藩地を占領したのであるけれど、実際においてはただ三の丸に軍隊を繰込んだまでで、その他は何事にも手を着けない。それで藩の政庁は従来通り役々が出勤して事務を執る。その場所は明教館の学問所が広かったからそこを使用していた。また藩主父子の側仕えをする人々も従来の如く常真寺へ代りあって詰めた。しかも藩主の御機嫌を伺うといって一般の藩士も日々常真寺へ出頭した。けれども余り多勢一緒に行くのは土州軍に対し憚かれという内諭もあったので、その心得で三々五々目立たぬように行ったものである。そうして藩主のみならず臣下一同恭順しているのであるから、外出の際は必ず裃を着た。なお同じ恭順でも高松藩では藩士一同脱刀したという事だが、我藩には皆大小を佩びていた。
 しかるに、一方には長州軍が三津へ来ていたから、土州軍への申込みに、一応松山藩主の謹慎の様子を見届けたい、また城郭等も見分したいとの事であった。そこで土州軍はこれまで我藩へ用捨して、そんな事もせなかったのだが、長州軍へ対する関係から、俄にその総督が常真寺へ来て藩主父子に対面をするし、また本丸二の丸を見聞した。続いて長州総督堅田大和及び副たる杉孫七郎が常真寺へ来ることになった。以前は土州軍からはこの常真寺へも用捨して警護兵をつけていなかったのだが、長州へ対するため、この日から一小隊の警護兵を付けることになった。この小隊長は名を何とかいったが、今向うから長州軍の総督が、これも一小隊ばかりの兵を率いて来るのを見て、我土州で固めている区域へは長州兵は一歩も踏込まさぬもしも踏込むなら打払えといって、隊兵に玉込めをさした。その事が長州へも知れたので、長州の一小隊は遥か隔った所に止め、総督その他が少数の人数で常真寺へ来た。この土州の小隊長の挙動は、後に聞いて土州の総督も賞美しまた我々松山人も頗る痛快に感じたのであった。そこで常真寺の藩主側にあっては、何しろ官軍の総督が来るというので、それぞれ準備をして、一体ならば藩主定昭公は寺の門前へでも出迎われねばならぬのであるが、そこは病気といって、礼服を着用して書院の下の間まで出られて、上の間に通った堅田総督に対し朝廷向よろしくお取成《とりなし》下されたいとの挨拶をせられた。総督からも何とか口を聞いたであろう。而してそこを立去る際、副たる杉孫七郎は忽ち下座の藩主の側へ来て、ただ今は職務上失礼をしました。御心底は察し入るから、朝廷へは十分にお取成をしましょうというような、個人としての丁寧なる挨拶をした。これも我々松山人には聞伝えて頗る好感を与えた。なお前藩主勝成公もこの際堅田総督に面会されて、伜定昭事|不束《ふつつか》を致して恐入る、よろしく朝廷向のお取成をという挨拶をせられたが、これは朝敵となられたわけでもなく、従四位少将はそのままでいられるのだから、それ相当の態度を以て応接せられたのである。
 かく我藩も恭順を表せられた上は、藩士内に党派などがあっては土州長州へ対して聞えも宜しからぬと、去年責罰された家老初めも総てそれを赦されて、あるいは役付をする事にもなった。そこで私の父は勘定奉行といって、財政の主任になった。また私も再び小姓を申付けられて、今度は前藩主勝成公の側付となった。つまらぬ事だが、私は小姓の再勤であるにもかかわらず、今度は総ての人の末席となった。それは父たる君公の側付の小姓が子たる君公の側付となれば、前の座席をそのまま持込むのであるが、子たる君公の側付が父たる君公の側付となれば、再勤と否とにかかわらず皆末席となるのが慣例なのである。そこで私は遥か後に小姓となった者よりも下に付いて働くことが何だか口惜しいように思った。けれどもこの小姓再勤を、私を愛した祖母に聞かせたら、どの位喜ぶかも知れぬのだに、去年亡くなったのを残念に思った。
 右の如く恭順中であるにかかわらず、藩庁は藩士の進退をするし、また家禄等も、最前いった人数扶持の制法で渡した。それから土州長州両軍の滞在費は総て我藩で支弁せねばならぬ、これがなかなかの物入りであった。また各郡の民政等は既に土州が占領したる上は、土州で扱わねばならぬのだけれど、やはり我藩の代官役に扱わせていた。ただ処々に立ててあった高札だけは、松山藩とあるのを、土州藩と改めてしまった。そうして松山城下は勿論土州の直接管理であったが、なかなか軍規は厳粛、少しも町方を凌虐するようなことはなかった。或る時土州の足軽位な軽輩の者が、古町の呉服屋で買物をして、僅の金を与えて立去り、即ち押買いをしたことがあったが総督はこれを聞くと直ちに斬罪に行って、その首四個を北の城門の外の濠端に晒した。
 しかるに長州軍は我藩地へ来たは来たものの、土州に先を越されているから、僅に三津浜と総ての島方を占領したまでである。そうして我藩の士民も、特に土州には親しむが、長州は余所《よそ》にしているような風もあるので、長州は少し妬ける気味もあったろうか。
 そこで我藩は既に恭順を表した上は一日も早く朝廷の御沙汰のあるのを待っている。また段々と聞く所では、徳川家始めその他の朝敵となった藩々も、奥羽をかけていずれも恭順を表することになったので、最早佐幕主義貫徹の希望もなくなるし、この上はひたすら藩の安全を図る外はないという事に多くの人心が成行いた。しかるに突然朝廷から土州への御沙汰では、『定昭儀は賊徒要路の職に罷在逆謀に組し候罪不軽』とあって、まだなかなか寛典を蒙りそうな様子でない。この事が知れると我藩の温和党は俄に騒ぎ立って、この上は藩主に代って当時大阪に供をしていた家老の菅と鈴木とに割腹させ、その首を差出して申訳させねばなるまいということになって両人の家老の宅へ詰かけ、もし聞入れねば刺殺そうという事まで申合った。すると過激党の側では、そんな卑屈な事をするには及ばぬ、家老二人はどこまでも殺させないといって、壮士等はその邸を護衛して、強いて押掛けて来れば切払うということになったが、藩主始め藩庁ではそんな事の起るのを心配しまた右の朝廷の御沙汰に賊徒要路の職とあるのは、彼の老中上席を勤めていられたものとの誤認であるから、それを弁解されて、その当時既に辞職していらるる事実を明にしたなら、かかる厳重なる御沙汰も自然に取消さりょうと考えて、この事を土州総督へも十分に通告したので、それを山内容堂公等にも十分斡旋せられた結果、五月下旬を以て改めて寛典の御沙汰となって、定昭公は蟄居を命ぜられ、勝成公に再勤を命ぜられて、十五万石はそのまま下さるる事になった。尤も勤王の実効として軍費金十五万円を献納せよという別の御沙汰もあった。そこで我藩上下一同まず愁眉を開いたことである。
 遡っていうが、この以前藩主の奥方と祖母君は江戸の邸にいられたのを、士州総督へ出願の上藩地へ帰らるることになり外国船二隻を借受けて海路より帰着せられて、これは千秋寺という寺に住《すま》わるることになっていた。
 いよいよ我藩も元の如くなったので、土州長州の両軍もそれぞれ退去するし、再勤された藩主勝成公は三の丸へ帰任せられた。そうして定昭公は東野の吟松庵というお茶屋へ移られ、ここで謹慎せられることになった。また私の一家も堀の内の宅へ帰住したが、土州の軍隊の号令厳粛であったとはいえ、随分汚なく住み荒して、私どもの残して置いた調度万端は散々に取り扱って、有る物もあったが無いものも多かった。
 この六月私は妻を娶った。これは継母の里の春日八郎兵衛の長女で、即ち継母の姪に当るもので、予てより約束が調っていたのだけれども、父の譴責やまた我藩の事変のため延引していたのを、もう憚ることもないから婚儀を挙げたのであった。そうして間もなく私は小姓勤務のまま明教館へ寄宿を命ぜられて、また往年の如く学生となった。
 この頃朝廷には諸藩の重役の職名を一定されて、執政参政というものを置かれたので、我藩でも家老は総て執政となり、参政に当る職はこれまで無いのだから、新に抜摘を以て命ぜられることになり、私の父も参政となった。また父と反対党とも目されていた戸塚助左衛門も同職となった。この戸塚は去年要路者排斥建議の殆ど主謀であったから、行為不穏というのでこれも要路者の責罰と共に責罰されて目付願取次となっていたが、その頃或る夜白衣のままで私の宅へ来て、父とは旧同僚でもあった辺から、一個人としての打解けた談をした。父ももとよりそこは同じ襟懐だから、長い時間膝を交えて談し合った。ここらはちょっと面白い交際であったのだが、料《はか》らずまた職務上でも坐席を並ぶることになったのだ。なお父の役については、前にいった勘定奉行になって、間もなくまた目付役に復していたのだが、この度家老に次ぐ重職となったので、私の一家は俄に家来なども多くなるし、家内が総て御歴々生活をすることになった。尤もこの年の七月に曾祖母も亡くなっていたので、今は継母と末弟彦之助と父と私とのみになったのである。
 この曾祖母は向井氏で藩では有名な軍学者三鶴の孫だが、戸主たる兄が或る不心得から家名断絶となって、実兄の竹村家に養われ、そこから私の家へ嫁したのである。しかるに向井家断絶より六十余年後、ちょうど私が十一歳で江戸から藩地へ帰った時、右の兄なる人が八十以上の高齢でまだ生きていて、三津浜に潜かに住んでいたが、絶えて久しき妹に面会がしたいと人を以て申越した。すると曾祖母は、『家名を汚した人には生前に逢う心がない。』と毅然として拒絶した。女ながらこんな気性の人で、亡くなったのは八十九歳、それまで小病もなく、時々煩うのは溜飲位であった。而してその終りは全くの老衰で、何の苦痛もなく両手を胸上に合して眠るが如く逝《ゆ》いた。その状態は今も私の目に残っている。
 この年の末に私は小姓そのままで、経学修行として京都へ行けとの命があった。而して明教館からも七等に進められた。そこで私はいよいよ藩地外で漢学生々活をすることになったので勇ましく出発した。この頃従来松山藩へ幕府から与えている領地家督相続の証として黒印ある書面(即ち将軍の御判物)悉皆を朝廷へ納付せよとの御沙汰があったので、それを入れたる長持を私がこの京都行のついでを以て保護して行けと
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