くも、お前までがこんなことになるのはあまりにひどい。』といって愚痴をこぼした。しかるに父は常にもあまり感情を人に見せぬ方であったが、この際も自ら信ずる所があったと見えて、全く平気で一言も吐かなかった。時々親しい人が来て、過激派を悪くいう事があっても、父はそれらについては一切沈黙していた。尤も或る日のこと知人が来て、今度要路者の失敗はまた松尾屋の失敗だと世間でいっているといった。すると父が、憤然として『あの松尾屋と禍福を倶《とも》にする』ということは意外であるといって、この時ばかりは十分不平の色を見せた。この松尾屋は今でいう御用商人で、奉行辺の権門にはよく出入して利を得ていた者である。で父の如きは彼をいつも憎んでいたのであるから、それと同じ運命になったということは頗る穢わしく思ったのであったらしい。この年の八月、祖母は熱病に罹って死去した。私は三歳で実母に逝かれた以来、厚く深く、保育の恩を蒙ったのであるが、かかる一家の逆境に立っている際、それを悲しみつつ他界せられたのは、一入《ひとしお》哀悼に堪えないのである。この病中にも、父は大小便まで自ら取扱って、他人に手伝わせず最よく看護した。悪いことはよく続くもので、間もなく父も熱病に罹って床に就いた。そして一時は危篤とまでいわれたので、親族一同心配した。この事が藩主にも聞えたので、従来譴責せられている者へは、そんな例は無いのであるが、特に小姓の水野啓助というものを父の従弟であるという関係から、表には本人の見舞だとして、内々藩主から懇切なるお見舞の言を賜った。その時父は、重病の身を床より起して感泣して御挨拶を申上げた。また当時の目付の第一席たる佃高蔵からは、もし父が死去した時は、まず内報せよということであった。これは、目付支配中に病死すれば、一旦家名は断絶して、忰が既に勤仕している時は三年目に僅に十五人扶持を賜って、家の再興が出来る例なのであるから、私の家もかかる運命に遇わねばならぬのだが、父は長年藩政に勤労しているので、特に父が万一のことがあれば、目付支配の譴責を解いて、家名断絶の不幸を免れしめたいという藩庁の内議であったらしい。かつこの内達は、父にも聞かせて安心させよとの申し添えもあった。それらのため家族は心配中にも藩主の思召や、当局者の厚意に意を強うする所もあった。しかるに幸にして父の病は快方に向って、歳末頃は病床にはいたが、もう大丈夫ということになっていた。
 これは少し前の出来事だが、私と同じ連坐して目付願取付となった野口勇三郎と二人は、藩から洋学修行として江戸表へ行けとの命があった。窃に聞けば、これは世子の思召で、私どもの才を惜み、父の責罰中ではあれど、特にこの恩命を下されたのであるらしい。また多少は久しく輔佐となっていた父に対しても、間接に慰藉されるお心でもあったろうか。さすれば私はこれに対して大に奮発し、この学を十分研究すべきはずであったが、漢学仕込みの私の頭は何だかまだ夷狄の学問を忌み嫌い、その他家庭の事情にもほだされたので、遂に平常信仰する彼の大原先生に縋って、右のありがたい恩命を辞してしまった。そういうと可笑しいが、学才には富む私だから、この慶応時代から外国の学問をしていたら、爾来かなりの大家にはなってはいよう。しかしそのため今日の俳人鳴雪とはなっているかどうか。呵々。
 少し遡っていうが、藩内の紛議やその他世間の状態も段々と劇変するので、藩主の温和なる性質では、もうそれらに直接することが厭わしくなられた。これに反して世子は、勇敢の気性で、進んで難局にも当りたいという風であったから、遂に藩主は世子に世を譲りたいと思い立たれその旨を幕府に出願された。そして、それが聞届けになるべき様子が知れたので、予《かね》て朝廷と幕府のお召もあったから旁《かたがた》、世子は上京せられることになった。そこで幕府はいよいよ藩主の退隠と世子の家督相続を聞届けられて、同時にこれまで代々隠岐守と称せらるるのを、特に伊予守と称せよとの命があった。かつ同時に老中上席に列せよとの命もあった。老中上席といえば、往年桑名の楽翁公が十一代将軍の時、この職に当られて以来中絶していたのを、この度我が世子に命ぜられたので、それだけ幕府から、信任を得られたのである。世子はこれまでも、幕府の重職たる会津侯や桑名侯と常に出遇って時勢を慨し政務を論じ居られたので、かく幕府の施設も困難に赴く際、せめては我が世子を挙げて大いに努力してもらいたいとの両侯の考えもあったろう。けれどもあまりに重任であるからなお退いて考案の上お答をしましょうといって、世子は将軍の御前を退かれ、それから随行の家老の菅五郎左衛門、鈴木七郎右衛門、なぞに謀られたが、何しろモハヤ時勢の挽回は出来かねる際で、なまじいにこの重任を受けられるるは公私共によろしくないと申立てたので、世子の気性としては多少不本意でもあったろうが、遂にその言に従って辞表を差出された。が、幕府では容易に聞届られぬので、再応出願せられてヤッとのこと辞職を許された。それは慶応三年の十月で、この時は既に薩長へ向って討幕の内勅が下っていた時である。間もなく土州の山内容堂公は後藤、福岡等を以て慶喜将軍に大政奉還を勧めらるることになって、それには勤王佐幕両党の聯立内閣を作ることを条件とせられたのである。そこで慶喜公も内実困却されている際であったから、この建議を採用して、いよいよ大政奉還を出願せられた。すると薩長などは夙《はや》くに朝廷の或る人々と謀る所があっていたから直ちに慶喜公の出願を採用され、いわゆる王政復古の大改革となった。そして要路に立つ人々はこの勤王党で、佐幕党は越前の松平春嶽公位の一、二人に止まった。かつ会津侯の守護職とか桑名侯の所司代とかも免職になった。そこで幕府方は驚くと共に不平を起し、就中会桑の如きは火の如く憤って、薩長と戦端を開こうとするまでに至った。そこで新藩主は老中上席を辞退せられたとはいえ、前より職としていらるる溜間詰(今でいえばまず枢密顧問官)の立場よりこの危機一髪の情勢を非常に憂慮せられて、或る夜などは二条城に終夜詰切って慶喜公に持重さるべきよう諫争された。尤も松平春嶽公あたりよりも同じ勧説があったので、慶喜公は遂に会桑侯等を率いて急に下阪せられることになった。そこで新藩主も共に下阪されることになったが、兼て朝廷より御召という命もあったのを、それにかかわらずかかる挙動を執られたので、既にこの時より朝廷向きの御首尾は悪くなった。
 明くれば慶応四年即ち明治元年正月は、早々から彼の伏見の戦争が始まった。私は前にいう如く、父と共に藩地に淋しく住んでいたが、前年末より再び明教館の寄宿を命ぜられて、以前の如く漢学を勉強することになっていた。忘れもせない新年の六日に京都から右の伏見の事変の急報があったので、我藩は上下|挙《こぞ》って驚愕をした。而してまず援兵として藩の一部隊を差向けることになったので、寄宿舎の同窓友人たる武知隼之助というが、これも出陣することになって、その翌日見送をした。それからというものは我藩は人心|恟々《きょうきょう》としていたが、十日に至って新藩主が帰藩されたという事が伝って士分一同三の丸へ出頭した。そして聞く所では、伏見の開戦以来幕軍は連戦連敗で、遂には大阪城へ籠城せらるることになり、慶喜公もその意を一般に達せられたにかかわらず、一夜会桑侯及び板倉侯を率いて、窃に仏国船に乗って江戸へ退去された。この際我新藩主には何の告知も無かったので我が上下共に非常に落胆した。かくなった原因を追想するに、まだ慶喜公が在京の時会桑藩は直ちに戦端を開こうとしたのを、新藩主は軽挙なきようと慶喜公へ建議せられ、その後公と共に大阪へ下られたとはいえ、会桑両侯は心に釈然たらない、しかも新藩主の実家たる藤堂藩は、幕府のために鳥羽を警戒していながら遂に官軍へ裏返ったので、これも新藩主に取っては、幕府に対して顔がよくなかった。尤も実家の藤堂兵を激励するため小姓で私の友人たる野中右門というを鳥羽まで遣わし、藤堂兵の隊長藤堂帰雲へその意を達せられたが、その頃はもう勅使が藤堂の陣中へ来ていて、方向は変じていたのであるから、野中には早々立帰るようにというので、やむなく大阪へ立戻ろうとした際、頭の上を幕府へ放つ砲弾が飛び出したということである。かようの次第で新藩主には徳川方より聊か嫌疑を受けられた結果であるか、遂においてけぼりを食わされたので、この上は帰藩して飽《あく》まで佐幕の旗を翻えし、赤心を明かにしようと決心された。折から前にいった藩の援兵が、その時一隻だけ持っていた藩の汽船に乗って大阪へ着いたので、藩主及びその従兵もそれに乗って、なかなかの満員で混雑を極めながらも上下共無事に帰藩されたのである。間もなく朝廷よりは慶喜公を始め会桑藩は勿論、姫路高松及び松山藩等を朝敵と目されて追討を命ぜらるるということになった。されど我藩の如きは、聊かも朝廷に対して異心あるのでなく、薩長等がみだりに徳川家を排斥し、横暴を極めると見るのみで、今日でいわば政党の圧轢と何の変りもないのであるが、口頭の宣伝や弁論とちがい干戈《かんか》を以て互に応ぜねばならぬのだから面倒だ。そこでよしや朝敵と目さりょうが、武門の意気地として、直ちに降伏することは出来ない。たとい孤立して滅亡を取るとも是非がない。殊に新藩主は徳川方に疎外せられた憤慨から、一層この志が強固であった。そこで帰藩の翌日であったと思うが、藩士一同三の丸へ出頭せよとのことで、私も出頭して見ると、新藩主及び前藩主はその居間へ、士分以上の者五人ずつ呼出されて、かく成行く上は致方がないから城を枕に討死する、従来の恩義上それを共にしてくるるならば満足であるが、異存ならば藩地を立去っても怨みはないというような熱烈沈痛なる宣告があった。僅に五人ずつがそれを聞くのだから前日の正午より翌朝の夜の明けるまで入替り立替りそこへ出た。私は同じ目付頭取次の仲間五人と、何でもその夜明頃に、この宣告を承った。そして誰一人それに対して異存を唱える者が無かったが、控席へ退いては、右の御達はあまりの思召切りだ、何とか今少し御思案もありそうなものだといって、彼処に五、六人此処に七、八人各々密議をこらす者もあった。私はそのまま帰宅して、まだ病床にいた父にそれを告げたが、父はこの上は致方ないと、嘆息したのみであった。従来伊予は大小八藩あって、我松山藩のみが真面目に幕府に心を尽していたのみで、同姓でも北隣の今治藩は、早くより傍観的であったし、南隣の大洲藩は既に勤王党になっていた。また背面の土州藩は有名なる板垣等が早くより薩長の志士と結んで伏見の戦にも大《おおい》に働いたのであって、なお今度朝廷からは松山征討の命が下った。前面は海を隔てて、長州藩でいうまでもなく討入の怨みもあるし、今般これらも松山征討の命を受けた。そこで我藩は完く孤立無援の地に立ったので、このまま防戦しても遂には落城して、君臣共に討死するということはモウきまっている。そこでその少数ながらも藩の四境を固める兵員を配置して、それらがなかなかの騒ぎであった。その中まず土州軍は久万山まで侵入して、恭順するか防戦するかその決答を聞きたいという公文を送り越した。しかるにこの際我藩は俄《にわか》に態度が変じて、この土州軍に向って恭順を表するということになった。後に聞くと土州は右の如く公文を送ったにかかわらず、別に金子平十郎等の内使を以って、我藩の要路者に面談したいと申し来った。そこで最初は道後町において目付の二、三人が応接し、次に味酒神社の社宅において家老鈴木七郎右衛門その他が応接したが、土州の内使の口上には、山内家と松平家とは従来親族の間柄でもあるから、この度の事変は土佐守及容堂の非常に心配さるる所である、而して今日の如く薩長が横暴を極めていては、このまま捨ておかれぬから、早晩土州藩は起て諸藩を糺合してそれを掃蕩せねばならぬ。その際は是非とも貴藩と提携せねばならぬから、それまでは暫く隠忍して恭順を表せられたいというような意味であって、
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