を汚さずに幸であったのだ。この頃我藩は幕府から借りた軍艦のみでは足らないので、親類の関係から隣国の高知藩に軍艦を借りたいと言って、承諾を得た軍艦が阿波の鳴門の海峡から大廻りをして来てやっと着いた。けれどもう用はなくなっていたが、藩主と世子はその軍艦の高浜港に繋いであるのを見分に行かれた。因って私もお供をして、始めて小形ながら軍艦というものに乗ったのである。この艦長は袴羽織で応接したが、その他の乗組員は、筒袖服に洋袴で、小刀もさしていなかったのを、私は珍らしく眺めた。
その後大分日が経ったが、幕軍は少しも盛り返えす様子もなく、従って我藩の軍隊もいよいよ惰気を生じた。けれども幕府から出陣の命は蒙っているので、僅に一里半隔てた城下ながら、世子も帰ることが出来ない。そこで、陣移しの名儀で城下から半里の西山の麓の辻、沢という両村へ引揚げて、庄屋の宅を本陣とした。我々どもも附近の人家を徴発して下宿した。そうして今まで近島にいた軍隊は三津浜まで引揚げた。しかのみならず今度は反対に長州兵が攻めて来るかも知れぬというので、海岸の要所要所へ俄造りの砲台を構えて、新古取交ぜの大砲を据え付けて、幾らかの兵を配置した。尤も三津浜には早くより不充分ながら砲台が出来ていて、三十六|磅《ポンド》という大砲をすえ付けていた。私どものいる辻、沢村は城下と目と鼻の間であるが、それでも家族の往来は勿論、書状の一通も取交せはせない。これは武門の習いで、出陣すれば全く家のことを忘れるということから来たのだ。けれども家来などの使いは漸々と往来することになって、私の好きな食物位は祖母から送ってくれたこともあった。
そのうち家茂将軍は薨去せられるし、孝明天皇も崩御遊ばされたので、休兵という達しがあったから、世子も終に城下へ引揚げられて、二の丸へ帰住せられた。そうして我々も自宅へ帰って再び家族に対面した。けれども自分も戦《いくさ》に負けて帰ったような姿なので、浮き浮きせず祖母始めの顔を見ても別に嬉しくもなかった。それからわれわれの勤務上も常より多くの数で二の丸へ詰めた。その外の役々を始め諸士も二の丸、三の丸に大勢詰めて、これらの人々は皆陣羽織を着用して戦時の警戒は解かなかった。或る夜などは、サァ長州兵が三津浜へ来たといって、城下が騒ぎ出して、私の父は直に馬で三津浜へ馳け付けたが、それは外国船が沖を通過したのを見誤ったので、後では笑いになった。
既に休兵の命はあったけれど、長州の態度は少しも判らぬから、何時攻めて来るかも知れぬので、軍備は調べて置かねばならぬ。ある日世子は二の丸から本丸へかけての櫓々の武器の検査された。その際天守閣に登られて、私もお供して初めてこの天主閣の眺望をしたのである。最上層には遠祖の菅原道真即ち天満宮が祀ってある。その他にも武器などが置かれてあったが、この天主閣の下は石造の穴蔵のような物になっていた。外へ出るには鉄の閂《かんぬき》があって、外から鉄の閂に錠が下してある。ちょっと見れば外からでなければ入れぬようであるが、別に下層の間に或る押入の唐紙を明けると、そこの板敷は一つ一つ刎ね板になっていて、長い梯子があって右の穴蔵へ下れることになっていた。世子と共に私も下りて見たが、上下周囲凡て石造で暗黒な上に身も冷や冷やする。ここは終に落城という時に、君公や近習等の者が自殺するために設けられたもので、上の天主閣へ火を縦てば、それが焼け落ちて総ての死骸が灰となってしまう。それを敵から邪魔をしようと思っても、鉄の扉だからなかなか明かない。また外から閂があるから最初はまさかこの内に人がいようとは思わないのである。私はここへ下りた時に、幕府その他の不振な事を考えて、早晩長州勢に攻め込まれて、彼は熟練した多数兵、我は熟練せぬ少数兵であるから、とても防禦は仕終《しお》おせない。そうして世子の気性としては、浜田藩主や小倉藩主の如く他へ落ち行くということは承知せられないから、仮令《たとい》藩主だけは、いたわって落し参らせるとしても、世子や近習の者は本丸を守って、終にはここで一同枕を並べて死なねばならぬと思うと、今から何だか変な気になったことである。しかるに後から知ってみれば、長州は薩州と聯合の約が出来て、今度は反対に幕布[#「幕布」はママ]討伐の密計が進行していたのだから、我藩等の如きにはさほど復讐戦をする考えはなかったのである。しかのみならず、この頃我藩からも一時の権略として、或る使者を長州へ遣わしていた。これは大島郡討入の際上陸した幕府兵は散々民家に向って乱暴をした。我藩の如きも乱暴はしなかったが、陣地の防衛のために、幾らかの民家を焼いたことがある。それを大島郡の人民は非常に恨み、かつ幕兵と我兵との区別を知らぬから、総ての乱暴を我藩でしたのだと思っている。そんなことが、漸々と聞えていたので、これらの弁解や挨拶として使者を立てるという口実であったのだ。けれども実は彼の攻め来るのをいささか緩和する方便であったことは勿論だ。これはモウ頼みにならぬ幕府を戴く孤立の藩としてはやむをえぬ状態であったのだ。が、この使者一件は藩主の方で主として決定せられたものであるから、世子は後で段々聞かれたものであるように思われる。
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一〇
翌慶応三年正月、長州の使者として林半七が来たので、我藩では、三津浜に迎えて応接した。その使命は、第一に俘虜の交換、第二に我藩の向背を尋ねるというのであった。俘虜というと仰山だが、前年大島討入の際、彼の士分一名を捕え帰った。また我藩では世子の小姓の菅沼忠三郎というが内命を佩《お》びて九州方面へ使者に行ったのを、馬関海峡で長州巡邏船で捕えた。そこでこの両人を交換するのであるが、それよりも主なる問題は、前年我藩から内使を以て大島討入の際、民家を焼いた事の挨拶、裏面には彼の復讐兵を向けるのを緩和するためであった、それを彼からも看破して、それだけでは了解が出来ぬから表向き使者を立てよといい、而してその意は長州の主義を賛成して協同するか否を問うのであった。そこで我藩では一時|遁《のが》れの方便が、遂に本気の明答をせねばならぬ事になったので、藩庁でも内々騒ぎ出した。そしてそれが外間へも漏れたので、いよいよ紛議が甚しくなった、殊に世子は右の長州への内使一件は後に聞かれたのであったから、例の気性として頗る不満に思われ、その側附の人々も共に憤慨した。それが更に、内外相応じて、一の党派となり、長州の使者を刎首して手切をするがよいと主張する者さえ出来た。が、また一方には最初内使を立てた当局者を始め、他の外間の者も、藩の危難を慮りかく幕府の権威の墜ちた上は、我藩もなるべく隠忍持重して時節を待つ外はない、それには長州の使者に対しても温和的に談判をするがよいと主張した。そこで藩中において初めて両党派が出来た。而して一方からは自ら正義党と称し、他を因循党と罵り、また一方からはその正義党を過激党と呼んだ。けれどもあまりに無謀な挙に出ることだけは出来ぬという事に誰も落ち合い、長州の使者に対してはいずれ当方より使者を以て明答をするという事にしてそれを引取らせる事になった。それからこの問題はなかなか重大であるから、藩限りには決せられぬというので世子は遽に上京して幕府の差図を仰がるることになった。そこで私もお供をして京都へ行き、最前の寺町の寺院へ上下共に暫く滞留した。そして世子は直に二条城に登城され、新将軍慶喜公に謁見して右の事件を言上せられた。間もなく老中からの達しでは、その藩においてこの際兵端を開くことは宜しくない、また幕府から援軍も差立てられ難い、而してかつて出兵の際の放火一件に関しては、その挨拶として使者を立てるだけは、差支ないという趣旨であった。それは世子においては将軍に対して十分強硬なる決心を述べられ、併せて幕府の援助をも求められたからである。が、その頃の幕議としてはとてもそれに応ずる事が出来ぬ所より、余儀なく右の如き指令にもなったのである。そこで世子は直ちに帰藩せられることになったが、この時初めて外国船を借入れて、兵庫港より乗込まるることになった。それで大阪までは船で淀川を下り、それから兵庫までは陸路を取らるることになったが、その日私は非番に当っていたから、同じ非番の同僚とぶらぶら歩きながら兵庫へ行った。前にもいった従弟の山本新三郎なども同行していたので、途中湊川の楠公の碑を弔った。この碑は、その頃は田圃の中に、幾本かの松の木の下にあって、半丁ばかり隔てた庵室みたような家にそこの鍵を預っているから、それへ行きいくばくかの礼を払って案内してもらった。碑は辻堂位の小さな建物の中に建っていて、裏面に楠公の木像が祠られていた。それから右の案内者から碑文並に正成の筆という石摺などを買った。菅茶山《かんさざん》の詩『客窓一夜聞松籟月暗楠公墓畔村』を想出して、昼と夜とこそ違え同じ感慨を起したことであった。しかるに今日ではここらが神戸の目抜の市街となって、楠木神社も立派な宮居となり、周囲には色々な興行物さえ陣取っている。が、鳴呼忠臣楠子墓という文字に対しては、やはり昔の光景が似合っているように思われる。
世子が帰藩せられて、幕府の指令を一般に告示されて、いよいよ正式の使者を長州へ差立てらるる事になったが、それには番頭の津田十郎兵衛というが家老代理として命ぜられ、それに目付の藤野立馬久松静馬河東喜一郎が同行した。勿論これは大島討入の際の挨拶というのみであったが、先方からは有名なる木戸準一郎が出て来て、防州宮市において応接した。而して木戸は、長藩の最初からの勤王並に奉勅の始末を縷々弁じ、是非貴藩にも連合せられたいと迫った。けれども我藩の使者は幕府の指令もあるから、この盟約は断然謝絶した。そこで彼は不満足でなお種々問答もあったが、結局不得要領な談判で、我藩の使者は引取った。従てこれだけではまだ長州方面の警戒は解けないのであるが、前にもいう如く、彼には既に薩州と連合して大なる企ても進行していたのであるから、その後は何事もなく経過した。
しかるに我藩内では、この長州に対する事件からいわゆる正義派また過激派はいよいよ燃え立って、この際因循派の当局者を厳罰せねばならぬということになり、それに世子の側用達の戸塚助左衛門なども内より指嗾《しそう》したから、馬廻、大小姓の平士組の有志者も加って、大勢が藩主に謁見してこの厳罰の事を申立てた。また最も過激なる輩の如きは、当局者の居宅へ詰め掛けて、割腹を迫り、承知せねば切殺そうという申合までをした。そこで私の父は多少学問もしているから大義名分位も心得ているのであるが、藩主始め家老その他の重役が、藩の立場の危難を慮るがために長州へ内使を立てるということになったので、それにも反対をしかね、その方便も多少時勢の変化を待つためにもなろうと考えていた。しかるにこれまで父は藩政の要部たる目付で、かつ世子の側用達を兼ねていたのであるから、この度の内使一件については父を首謀者位に見ている者もあったらしい。従て何時過激派が宅へ来て父にも危害を加えるかも知れぬという虞《おそれ》もあった。そこで私も万一の際は如何したらよかろうかと考えたが、結局父と共に死ぬる他はない。で、もし父に迫るものがあったら、私は飛出して行ってまずその者らに切付けよう、勿論多勢に無勢だから、反対に切殺されるは知れて居れど、父と共に死ぬるのは子たるの道だと思って、余儀なきながらも決心していた。が、幸にそんな事も無くて済んだ。而して、過激派の建議は大体採用さるることになって、当局者はそれぞれ責罰を蒙った。即ち、家老の奥平山城、奉行の近藤弥一右衛門、大島へ内使に立った代官奥平三左衛門は隠居、目付で上席三人の皆川武大夫、野口佐平太と私の父、及び奥平の副使となった矢島大之進は目付支配を命ぜられて、いずれも謹慎せよとの事であった。そしてそれに関係して右の人の子弟もそれぞれ譴責を受けて、私も小姓を免ぜられて目付願取次となった。常に私を愛している祖母などは、この責罰を驚き悲しんで、『お父さんはともか
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