抱に皆力を尽していた。そのうち皮癬が一家に伝播して、私と曾祖母との外は皆これに罹った。医者は彦之助の胎毒が変じて伝染したのだといっていた、薬風呂をたてて皆が入った。そのうち私もいくらか伝染した。この騒ぎでいよいよ遊山などには出られなかった。
 京都の藩邸へは出入りの人々がある。そのおもな者には、徳大寺殿の家来の滋賀右馬大允というのがある。松山藩はこの徳大寺家を経て朝廷への用を多く弁じていたものであるから、藩からこの滋賀へは贈物などもして機嫌を取っていた。そこでかれからも親しく交際を求め、私の内へよく来た。茶道の千家は利休以来裏表があるが、この裏千家も私方へ出入をした。この千家の玄々斎宗室と呼ぶのが藩士の名義になって二百石を受け、側医者の格で居た。その外銀主と称える平田、呉服商の吉沢、三宅、などいうのが出入した。銀主というのは、大阪以外この京都でも藩主が借金をした、その債主で、今では金も無くなりただ昔の名義で扶持を貰っている者である。呉服商は、朝廷へ参内する時の官服などを命ずる者である。こういう出入の者等には、留守居としては毎月一回はちょっとした饗応をせねばならなかった。そのうち滋賀や千
前へ 次へ
全397ページ中91ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング