ず、間違があると公家方から談判をされる。そうなると、藩主が幕府に対して不首尾になる。こういう次第で、ウカと近づいてはいかず、近づくにはむつかしい作法がいるというので、藩々からはとかく京都に対しては敬遠主義を取っていた。京都の留守居は、特にこの朝廷に対する藩の関係を注意して勤めなければならなかった。その言合せのために、祇園町に会飲する習わしになっていた。こんなイキな事は父は至って不得手であるが、この役にされた訳は呑込んでいたので、交際はつとめて遣るという決心をしていた。
 京都の邸は小さくて、御殿といって君侯の居られる所も出来ていたが、ここへ来られるのはまず君侯一代に一度もあるかないかという位であるので、この御殿へ留守居が住まっていた。立派な所が我が家になったのである。それから、父がちょっと出るにも、若党二人と草履取を連れる。屋敷を出る時には、皆下座をして『お出まし』という、子供心にこれらの事は嬉しかった。
 節倹をせねばならぬというので、家族は物見遊山に出なかった。それに大之丞の次の弟、彦之助が京に上ってから胎毒を発し、頭が瘡蓋《かさぶた》だらけでお釈迦様のようになり、膿が流れ、その介
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