た。長男が私の耳へ小さな藁しべをあてがっていたのである。それから暫く耳が痛んで仕方がなかったが、七十四歳の今日でも、耳の掃除をする折、ある部分に触れると多少の痛みを感ずるのである。
 その頃彼らは私に向って、『今こそお前はおとなしくしているが、今に屋敷を持って、他の士族仲間の子弟と遊び出したら、私達は顧みもしなくなるだろう』といっていた。大宮司は従五位上肥後守といっていたが、藩の士に対しては卑下していた。私はたまたま家主の子であり藩地へ来て始《はじめ》ての友達であったので唯一の友としていた。しかしなるほど他の藩士の子弟と交るようになってからは、疎遠になってしまった。
 この大宮司へは国学者などがよく来たもので、ある時長く逗留して何か調べ物をしている人があった。大宮司の子等があれは国学の先生で三輪田綱一郎《みわだつないちろう》という人だと私に話したが、それが後年京都で足利の木像の首を切って晒し物にした浪士の筆頭となったのである。そしてその妻は今の三輪田女学校長の真佐子である。この綱一郎は松山城下を少し離れた久米《くめ》村の日尾《ひお》八幡《はちまん》の神官の子であった。
 五月になると、
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