た。而して折々見れば寄宿舎では右二氏の外、五百木飄亭《いおきひょうてい》氏とか勝田《しょうだ》明庵(主計《かずえ》)氏とか藤野古白《ふじのこはく》氏とか新海非風《にいのみひふう》氏とか佐伯蛙泡氏五島五州氏とかいうが随分盛んに俳句をやっていたのである。しかるに廿五年の年始に私は二つばかり俳句が出来て、それを子規氏に見せたら、これはなかなか好いといって誉めてくれた。それから私も暇ではあるし、いよいよ俳句を遣って見ようという気になって、作れば作るほど熱心の度を増した。この夏子規氏は松山へ帰省して、彼地でも俳句を宣伝して段々と同好者を生ずるに至った。

 私はまた別に、宇和島人の土居藪鶯氏は兼て知り合いで、これもその頃から俳句を始めたと聞いたので、この人の在勤している、横浜へも行って共に句作し、そこの宗匠に見てもらう事もしたけれどもまだ何らの標準も立たず月並的の句も作るので、子規氏が松山から帰って来ても余り取ってくれない。そこで私は多少憤慨心も起ったので、兼て子規氏から聞いていた蕉門の猿簑《さるみの》集が句柄が最もよいという事を思い出して、もっぱらこの集を熟読して、その末数句を作って子規氏に見
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