せた。処が意外にも氏が賞讃して、これはいずれも振っている、どうした訳かと聞いたから、猿簑を熟読した事を話したら、氏もそれで判ったといって大いに笑った。それ以来は、寄宿舎の俳句仲間よりも私が最も氏に信用せらるる事になって、私もいよいよ得意になって句作をした。この年子規氏は日本新聞の創設に際して、その文芸欄を受け持つ事になった。これは谷|干城《たてき》氏が我同胞が西洋にのみ心酔して日本という事を忘れるのを憤慨して、それを覚醒するために発刊したので、名さえも日本と名づけて主筆としては、陸羯南《くがかつなん》氏を用いた。この羯南氏と共に、司法省法律学校の放逐生たる同郷の加藤恒忠氏は子規氏の母の弟である関係から、羯南氏が早くより子規氏を知っていて、この新聞で充分にその才能を発揮せしめたのである。そこで子規氏も得意になって俳句の選をする事は勿論、俳論を縦横に書いて月並派を攻撃して、ここに始めて我々が俳句の今日あるを致した。この影響は一両年経つか経たぬに全国に及んで、新聞という新聞は、俳句を掲げざるなく、書生仲間には到る処に子規風の俳句を真似する事になった。而して子規氏は、好んで旅行もしたものである
前へ
次へ
全397ページ中326ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング