も講義をするのは人よりもうまかったから、人中で喋る事は多少の自信もあったのであるが、忘れもせぬ、学区取締となった最初に、小学校設置の必要を松山の有志者に説き聞かす時、少しいい詰って、出来そこなった事がある。それ以来、大勢の前での演説は少しおくれ気味になっていた所へ、この度文部省出張官の位置としての演説であったから遂に失敗したのである。これは後の事だが、それに懲々《こりごり》して、文部省勤務中は演説事は断って全くせなかった。その後子規に導かれて俳人生活をする事になって卅年頃に神田の或る学校で講演会を開いた時に思ったよりも巧く喋舌った。次に徒歩主義会の講演を神田橋外の和強学堂で開いた時も出来栄えがよかった。そんな事で私は元気を回復して、今では演説や談話は好んでもする事になって、聴衆が多ければ多いほど弁舌もいくらか伸びるという風になった。
 一体学制の頒布は第一に小学教育の普及を主眼としていたのであるが、まだ強迫就学という事までは進んでいなかった。しかるに私が県地にいて小学教育を督励していた経験では、是非とも強迫就学となし、その教育費も他の租税の如く、賦課するのでなければ結局の目的は達せられ
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