の一行を案内して県下の小学校を彼方此方と見せたが、野村氏のいわるるに、この県には未だ県立師範学校がない、他の県の多くは師範学校が出来ているから是非それを設けよとの事であった。私はそれに対してそんな師範学校を設くるよりも各地へ伝習所を置いた方が実際教授の普及には裨益があると抗弁した。けれども他の県に師範学校があって見れば、我が県にそれがないのも口惜しいと思って、その事を岩村県令に建議して、それなら相当の学校長を雇って来いという事で俄に出京を命ぜられた。因て直ちに出京したが、野村視学官はまだ帰京していなかった。そこで文部省へ出頭して、良い東京師範学校卒業者を求めた結果、松本英忠氏というを雇入るる事になった。そうして創設したのが現今も存在している松山の師範学校である。この創設と共に各所の伝習所は廃止して、その主任で居た教授法の諸教師は改めて派駐訓導と名けて、相変らず伝習はさせた。それから、中学校もなければならぬというので、これには慶応義塾から草間時福氏というを招聘して主として英書を教えさせ、別に漢書の教場をも設けた、この教師は松山在来の漢学者を用いて、太田厚氏が首坐であった。けれども未だ学制
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