知事家奥向に或る事情があって、参事あたりよりも、それについて配慮した結果、定昭公の実家である藤堂家に諒解を求むる必要があったので、父は外交にも馴れているという事から、実は藩庁の推薦に出たものである。その往復は僅の日数で、帰って後の話しに藤堂家では頗る優待を受けて、漢学者で名を知られている土井※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙《どいごうが》氏やその他画家などを召されて、藤堂知事公も臨席して酒盃を取交わされたという事である。この伊勢から戻って間もなく父は隠居を願って、家督を私へ譲った。家督といっても以前なら、家禄があるのだが、この頃は最う士族一般が平均禄で、前にもいった、一家につき廿俵と家族一人につき一人半扶持とを先代の如くもらうのみである。尤も私は権少参事を勤めているから、この年俸は別に貰っていた。父は隠居と共に櫨陰と号して、それからはもっぱら詩を作りまた拙筆ながら書なども書いた。そうして常に文事の交りをしていたのは、漢学者では伊藤閑牛翁、医師では天岸静里氏などであった。
 この頃東京の藩邸では、公用人が、もっぱら朝廷に対する用弁をしていたのだが、それの監督かたがた、大参事と少
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