で消防どころか、殆ど何一つ出す事が出来なかった。それで松山藩創立以来の日記その他あらゆる重要な書類が悉皆焼けてしまったのは惜しかった。最近私どもが久松伯爵家から嘱托せられて、旧藩の事蹟を調べる時もこの焼失のため頗る不便を感じた。また藩知事公の居間も勿論焼けたので、一時二の丸の方へ転居せられ、間もなく前にいった新邸が出来てそこへ移られたのである。
 この頃徳川慶喜公を始めその他一時朝敵の名を蒙り蟄居を命ぜられた藩主連も、寛典を蒙り平常に復して位さえ賜わる事になったので、前藩主の定昭公も同様の御沙汰を蒙られて、改めて従五位に叙せられた。そうして藩知事勝成公は余儀なき事情で再勤せられたのであるから、定昭公にしてかく平体に復せられた以上は、それに知事の職務を譲りたいと思われ、その筋へ出願の上、いよいよ勝成公は隠居せられて、定昭公が藩知事を拝命せらるる事になった。
 この頃の事である、幕府時代から引続いて切支丹宗門は禁制であって、その信徒は厳刑に処する掟であったにもかかわらず、長崎地方にはこの信徒が絶えなかった。尤も王政維新の際、一時は神道派が勢力を得て仏教さえも廃せらるるかの噂さえあったほどだ
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