の明教館は文政の頃我藩の名君定通公が創始せられたもので、学則の第一に『学は程朱に従ふべき事』とあったのだが、私はそれを取り除けて東京の大学の学規の『道の体たるや物として在らざるなく、時として存せざるなし』云々の文を掲げて、学科は普通科、皇典科、洋典科、医療科、算数科というを置いて、その普通科が実は漢学を主として日本の在来の漢籍やその他西洋の翻訳書等を教授させたのである。そうして、以前私どもが教えを受けた、老先生は凡てを免黜《めんちゅつ》して、比較的年の若くて多少西洋の話しも判りそうな者だけを教官に残し、その他は、私の同年輩あるいはそれ以下の聞かじりのハイカラ書生などを用いた。尤も皇典科は藩地で多少それを研究していた神官連を用い、医療科は医者のいくらか学理を心得ているものを用い、算数科も藩地でも名を取っている数学者を用いた。それから洋典科は藩地では人を得られぬので、その頃は慶応義塾が多くの洋学生を養成していたから、そこへ懸合って稲垣銀治氏というを雇った。その後尚銀治氏の紹介で稲葉犀五郎、中村田吉両氏も雇った。尤も稲垣氏でさえ慶応義塾でピネオの文典とか、カッケンポスの万国史とかミッチェルの
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