。大阪の見物はそこそこに済まして、いよいよ藩船の便で海路は別段の事もなく松山へ帰着した。それからというものは、誰れに向っても例の文明談の気焔を吐き散らした。といって実際どれだけの事を知っているかというに、まず福沢諭吉翁の西洋事情三冊を読んだ位で、その他は江戸が東京となって以来多少の変化した状態を目撃したというだけである。されど藩地のみに蟄居していた者と比ぶればこれでもなかなかの新智識であったのだ。最近の詞でいえば、我々はハイカラである。ハイカラといっても今頃の青年よりは一層突飛な西洋崇拝で、日本の旧来のものは何事も陳腐因循だとして、一も二も西洋でなければならぬという主張であったのが可笑しい。私も今でこそ今日のハイカラ達を譏《そし》りもし警《いまし》めもするが、以前の私のハイカラは今日の人々よりも数倍のハイカラで、このハイカラ熱からいえば今の若い人々はまだまだ沈着しているのだ。そこで私どもの意見では、松山藩が維新の際に失敗したような事を再び繰り返してはならない、なんでも時勢に適応して、大いに藩力を振わねばならない、それには武備の振興が第一だといって、私は平士上隊でいるから、まず軍隊の調練
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