あるそうな。一見してもなかなか気丈な婆さんだと見えた。その日水本先生はその頃有名な古川端の狐鰻へ学問上の或る知人を招かるるので、私どもにも同行せよとのことで、そこへ行って御馳走になった。客人は肥前人であったが、席上で七言律詩を作って先生に示した。先生は直ちに次韻して唐紙へ揮毫せられた。そして私へも次韻せよとの事であったが、少し臆したのか出来ずと了った。
 その頃我が藩の屋敷は、愛宕下の方の上屋敷は朝敵となった際に没収されたまま返されず、別に小石川見附内の高松の中屋敷を代りに下さった。しかし三田の中屋敷は元の如く下されたのでそこに留守居役や公儀人公用人なども住んでいた。公儀人は藤野正啓氏(海南)、公用人は梯渡氏、留守居は佃杢氏であった。私は藤野氏の寓所へ行って著京を届けて、そのまま泊めてもらった。私は東京へ来ればまず芝居が見たいので、その事を話すと、藤野氏もちょうど見たいと思っている所だと言われて、翌日猿若三丁目の守田座を見物することになった。この座の座頭は沢村|訥升《とつしょう》、立女形は弟の田之助、書出《かきだし》は市川左団次であった。田之助は私が藩地にいる頃より継母方の伯母の山本が
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