江戸から持帰った錦絵や番附でよく知っていて何だか見ずと贔負に思っていたのであるから、実は他の座よりも守田屋を見る事を藤野氏にも勧めたのであった。尤もその時の田之助は、既に脱疽に罹り横浜の医師のヘボンに片足を切ってもらっていたのだが、うまく他の片足を使って芸をして、何とかいった河竹作物の傾城遠山と飛高川の清姫を勤めた。訥升の安珍や左団次の悪僧剛寂などもまだ目に残っている。
 こんな見物ばかりしちゃいられない、いよいよ昌平学校へ入らねばならぬのだからその手続をしてもらって、間もなく許可されて学生となり入寮した。京都より同行の薩州その他の書生も前後して入寮したので、これら知っている顔とは朝夕打寄って話などもするから別に心細くもなかった。この昌平学校へ段々入って来た寮生でその後世間に知られている人を少しばかり挙げると前にもいったが、薩州藩では黒岡帯刀氏長崎省吾氏の外、川島醇氏西徳次郎氏山本権兵衛氏、大村藩では岩崎小次郎氏、肥前藩では松田正久氏中島盛有氏(当時土山藤次郎)、土州では谷新助氏奥宮正治氏、中村藩では相馬永胤氏、久留米藩では高橋二郎氏、富山藩では磯部四郎氏、高鍋藩では堤長発氏、処士では
前へ 次へ
全397ページ中231ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング