であった。けれども薩州人が泊っている上に数人の若人が出て来たので先方も穏かに引取ったのであるらしい。また或る日川越しをする時であったが、旅客の多勢が集っていてその荷物なども容易に舟に積んでくれない。旅客は頻《しきり》にあせっている。そこへ或る老人の渡場の差図役が来たが、私の荷物に松山藩と記してあるのを見ると、忽ち「松山様だ、先へ早う。」と呼んで、誰よりも先へ私の荷物を運んでくれた。王政となった今日、松山も何もないのだが、徳川時代の御親藩たる威勢が老人の頭には残っていたと見えて、それには私も頗る今昔の感慨を起したことであった。
東京へ着した晩は、二本榎の水本先生の母人の家へ他の薩州の人々と共に泊めてもらった。朝起きて見ると、もうその母人は大勢の男女の教場に臨んで、手習の指南や、漢籍の素読を高声に授けていられた。聞く所では水本先生はその尊父の代から江戸の漢学者で、その配遇も女ながらに漢学を修めていられた。その後尊父は亡くなられ、先生は薩州藩に聘用せられて、遂に鹿児島へ行って藩校の漢学の指導をせられていた。そうしてこの母人はやはり江戸に残って、そのまま家塾で幼年男女の教授をせられていたので
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