。翌明治二年の正月のこの南座は歌舞伎でなくて照葉《てりは》狂言に替って、少し失望はしたが、こんな物は始めてなのでちょっと面白く見物した。
 ちょっと一事余計な話しを挟んで置くのだが、この頃水本塾へ時々遊びに来る人に矢沢某氏というがあって、薩州での旧水本門人らしいが、その後奥羽征討軍の参謀部に従事してそれも今は解任せられていた。この人は最も詩才に富んでかつて桜を詠じたものに『薄命能延旬日命納言姓氏冒斯花、云云』の七律を作って同塾でも称賛を得たそうだ。しかるに輓近琵琶歌にこの詩を入れて作者は新井白石だといっている。これは白石の雪の詩の七律と間違ったもので、その体裁が全く同様なからである。尤も矢沢の桜の詩も無論それに倣ったには相違ない。
 新年早々東京では旧幕府の諸学校を再興されて、漢学専門の昌平塾を昌平学校と称してそれに国学を併せて教授する校舎が出来た。その他以前の開成所を開成学校と称して洋学を教授し、医学所を医学校と称して医学を教授する所となった。そこで水本先生は、昌平学校の一等教授を朝廷から命ぜられて、俄に東京へ行かるることになったので、われわれどもは頗る失望した。尤もその代りとして重
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