も監視を加えるからさほど遊蕩に耽ける者はなかった。就中世子の側に仕えているものは、一層謹慎しているから、外へ出て酒を飲むといっても、その頃から流行出した、軍鶏《しゃも》とか家鴨《あひる》とかの鍋焼き店へ行く位のものであった。稀に一、二の人はそれ以上の料理屋めいた所へも行ったらしく、帰って来て酔った余り唄の一口か踊の真似をする者があったが、周囲からは眉をひそめて厭わしく見ていた。この者は世子が帰城すると直に免職となった。そんな風で、我々は暇があればまず読書をする。また少しは時世論などもする。また詩歌の出来る者は和歌を作り、詩を作る。同僚中で詩の出来る者は、前にいった菅沼と従弟の山本と、この外に中村粂之助、側役では宮内類之丞、石原量之助、また余り作りはせなかったが、叔父の下村も多少詩を知っていた。それで私は例の時世を詠じた詩や、松山出発以来の途中の詩や、なお着京以来聞き噛った時事の問題に渉る詩などを見せたり互に次韻をしあったりして、いよいよ同僚中でもこんな才のあることだけは認められた。
この頃の京都は彼の長洲兵が、禁門に発砲した騒動で、その残党を捜索するという事から殆んど人家の大部分を焼
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