多少は用いられていたので、西崎医は申すまでもなく漢方家であったにもかかわらず、幾らかその用法を知っていて、機那塩即ちキニーネを服せしめた。苦《に》がくて飲みにくいから、あの粉を飯粒に交えて幾個かの丸薬にして、それを三回分飲んだ。するとその翌日から発熱をしなかった。瘧は落ちたのである。しかしまだ衰弱しているので、父の方も十分静養せねばならぬところから、更に数日そのまま滞京していた。
浅井の叔父は、その頃大分酒を飲み、父の枕頭でもちびりちびりと盃をあげるほどの、ちょっと変った気分であるし、父の病も快方に向って安心してもいたろうから、酔うとよく詩吟をした。それは山陽の天草洋や文天祥の正気歌などで、就中尤もよく吟じたのは李白の『両人対酌山花開、一杯一杯復一杯、我酔欲眠卿且去、明朝有意抱琴来。』を繰返し繰返し吟じたのは、今も私の耳に残っている。父もやかましいと思って困ったようではあったが、止めることもしなかった。この叔父は多少詩も作りまた漢学の素養もあったので、親子兄弟三人で随分そんな話もしたのであった。
藩の公用も父が少し良くなったために、京都に残っている目付や藩邸の留守居などが時々来て相
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