談することもあって、私もわからぬながらそれを病床で傍聴したこともあった。その内父もいよいよ快癒して帰藩の旅をしてもよいということになり、私も勿論快復したので、そこでかつて京都留守居を引上る時に用いた高瀬舟をまた雇切って、伏見へ下り、伏見からは例の三十石の昼舟で大阪へ下ったのであった。西崎医は伏見まで送って来た。浅井の叔父はやはり船も同行したように記憶している。
大阪からの船は、折から藩の大きな荷船の来ているのが無かったので、別に早船を藩から雇ってそれに乗せられた。この船にも小さな屋根があって、父その他の数人もその下に寝ることは出来た。一体小形で、帆も上げるが主としては櫓を用いた。この櫓は随分早いものであった。これは大阪で雇入れたので、船頭もやはりその船に属した者ばかりである。藩の船手は一人だけ乗組んでいた。前にもいった如く藩の船なら船手も数人いて、藩地の浦々で徴発するかこ[#「かこ」に傍点]に向っては頗る威張ったものであるが、この商船となると自分一人であるので、隅に小さくなっていて何事も差図などはせない、全くお客様という顔をしていたのは、誰もひそかに笑った。
この航路は天気もよく、
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