るから、世子その他の人々もこの事については頗る心配されて、療養上の保護も厚く受けていた。従って世子が京都を引上げられる際も、特に御側医師西崎松柏という者を残してもっぱら父の療養をさせられた。また父の弟の浅井半之助というが世子の小姓(他でいう近習)をしていたのを、特に随行を免ぜられて父の看護をすることを許された。なお父が目付であったため、目付手附の卒で伊東与之右衛門というものを、その筋から病気の用弁に残されていた。この外父が身分相応の従僕も三人ばかりいたので、この寺院における父の一行だけでもなかなか多人数であった。
私は着くや否父の並びに床をとってもらい、打臥したが、右の西崎医の診察では瘧《おこり》だというのでその手当をした。数日間は随分熱も高く出て苦しかった。そこで或る京家の人からは禁裏の膳のお下りだから、これを頂くと落ちるといって、少しばかりの御膳を貰ってたべたことなどもあったが、なかなか落ちない。私はいつもそうであるが、熱が出るときまったように頭痛がするので、この度もそれが強く起ったが、ある時多量の鼻血が止めるにも困るほど出て、それが納まると、頭痛も共に止った。その頃は西洋の薬も
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