で、そういう趣味がなかった。
しかし私の実母は、死ぬ少し前に、始めて猿若《さるわか》の芝居を見た。三代目中村歌右衛門の血達磨《ちだるま》で、母が江戸へ出て来て始めてこの大芝居を見たのであった。その頃大概の芝居は直きに草双紙になって出た。母はそれを買って愛読していた。それで死んだ時に、祖母は母の棺へこの血達磨の草双紙を入れてやったと後に聞いた。かつて私のうちにただ一部あった草双紙はこうして亡き母のお伽《とぎ》に行ってしまった。
継母も始めて田舎から出て来たものだから、一度は芝居を見せねばならぬというので、うちに嫁した年、即ち私の六つの年に、猿若二丁目の河原崎《かわらざき》座を見せた。その時継母が持って帰った、番附や鸚鵡石《おうむいし》を後に見ると、その時の狂言は八代目団十郎の児雷也《じらいや》であった。この時継母と同行したのは山本の家族であった。それから母にのみ見せて祖母などに見せないのは気の毒だというので、父は大奮発して、更に曾祖母と祖母を見せにやった。私はその時ついて行った。これが私の芝居見物の始まりであった。同伴したのは心安い医者などや、上屋敷にいた常府の婆連で、桝《ます》を二
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