つほど買切って見た。
 三田一丁日の屋敷から猿若まで二里もある。女子供はなかなかたやすくは行かれぬ。駕籠《かご》は大変に費用がかかるので、今の汐留《しおどめ》停車場のそばにその頃並んで居た船宿で、屋根船を雇って霊岸島《れいがんじま》へ出て、それから墨田川を山谷《さんや》堀までさかのぼって、猿若に達したのである。
 私は暗いうちに起されて船に乗ったまでは覚えていたが、それから寝てしまって、目の醒めたのは、抱かれて河原崎座の中に這入る時であった。まだ灯がカヤカヤと点《つ》いていた。後に番附や鸚鵡石で知ったが、この時は一番目が嫩軍記《ふたばぐんき》、中幕勧進帳、二番目が安達原で、一ノ谷の熊谷は八代目団十郎、敦盛は後に八代目岩井半四郎になった粂三郎、相模は誰であったか今記憶せぬ。勧進帳は、富樫が八代目団十郎、弁慶は七代目団十郎、即ち海老蔵であった。海老蔵は一世一代というので、実に素晴らしい人気であった。二番目は二代目嵐璃寛が貞任と袖萩の二役を勤めた。私が小屋へ這入った時は既に始まっていて、平山ノ武者所が玉織姫を口説いてから手にかけて殺す所であった。この平山は浅尾奥山という上方役者であった。
 
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